九龍城砦 のバックアップ差分(No.2)

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九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)は、現在の香港・九龍の九龍城地区に造られた城塞、またはその跡地に建てられていた巨大なスラム街を指す呼称。
広東語で「九龍城砦、又は九龍城寨 (砦と寨は日本語でも廣東語でも同じ意味を指す。) 」
日本では九龍城砦を「九龍城」(きゅうりゅう)と呼ぶ場合がある。香港本土では「九龍城」は九龍城砦が存在した一帯の地域名あるいは行政地区名の呼び名である。
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九龍城砦は何よりも都会にある秘境的なイメージが先行し、特に日本では1980年代にはカルト的に半ば伝説化した。中には観光バスで乗り付け、内部を探索するというツアーまで登場した。折しも香港が返還されるにあたり、史上最大の帝国だったイギリス帝国の最後の植民地であり、自由を抑圧する共産圏に呑み込まれてしまう「自由な西側先進国」に近い資本主義都市である香港の先行きを憂慮する風潮と重なったため、植民地支配の象徴でもあった九龍城砦を外国メディアは多く取り上げた。取り壊しが行われる前後にはかなりの日本のマスコミも取材に訪れ、九龍城砦が解体されたという報道も配信された。
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九龍城砦の存在は、世界でも指折りの豊かな地域となった香港にとれば人々の関心も薄く、もはや過去の遺物であった。香港政庁など行政機関にとっては、できるだけ早い排斥が念願だったと思われる。しかし、史上稀に見る規模で展開されたスラム街区は、学術的にもその資料的価値は非常に大きい。遺構の数々は建築学または環境学などの面において極端な例ではあるが、現在ではアジアでの都市構造の貴重なサンプルである。
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九龍城砦は何よりも都会にある秘境的なイメージが先行し、特に日本では1980年代にはカルト的に半ば伝説化した。中には観光バスで乗り付け、内部を探索するというツアーまで登場した。折しも香港が返還されるにあたり、史上最大の帝国だったイギリス帝国の最後の植民地であり、自由を抑圧する共産圏に呑み込まれてしまう「自由な西側先進国」に近い資本主義都市である香港の先行きを憂慮する風潮と重なったため、植民地支配の象徴でもあった九龍城砦を外国メディアは多く取り上げた。取り壊しが行われる前後にはかなりの日本のマスコミも取材に訪れ、九龍城砦が解体されたという報道も配信された。
1841年にイギリスは清国との間で行われた阿片戦争に勝利。南京条約により清国から広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開港と香港島の割譲を認めさせた。1860年にはアロー戦争によって締結された北京条約により九龍市街の界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点では九龍城砦はイギリス領よりわずかに外れた場所にあり、清国領内であった。
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イギリスは1898年に、香港防衛を理由に深圳河以南の新界 (New Territories) 地区とランタオ島をはじめとする香港島嶼部の200余りの島々を99年間の期限付きで租借した。この時九龍城砦は完全にイギリス領に取り込まれてしまったが、英清両国で取り決めた租借条約により九龍城砦は租借地から除外され飛び地化、イギリスの香港防衛を妨げないという条件で引き続き清国役人が常駐した。しかし役人が祝い事で爆竹を鳴らしたことが、「イギリスの軍事活動の妨げになった」という理由で清国の役人を九龍城砦から追放してしまう。だがイギリス側がこの時点で九龍城砦を占領することは条約違反となるのでこの場所を接収できなかった。
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1911年の辛亥革命に端を発し翌1912年1月には中華民国が樹立、1912年2月に宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位により中国政府としての清朝は滅亡した。この時点で九龍城砦本来の機能は終了した可能性が高い。しかし、施設管理については後続の中華民国も清国と同じくイギリスの抗議により実現できず、またイギリスの城内管理は中華民国側の抗議により断念と膠着状態に陥った。
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また1941年12月に日本軍が香港を占領した際、要塞に建設されていた城壁が近隣の啓徳空港拡張工事の資材となり取り壊された。この日本軍の占領により九龍城砦の管理交渉は中断した。1945年8月には日本の第二次世界大戦敗戦により香港は再びイギリスの植民地となるが、経済や治安など生活上全ての面で香港自体が不安定な状況にあった。
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その中で、戦前より続いていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の中国内戦(国共内戦)の大戦終結後の激化により多くの難民が身寄りを求め香港に押し寄せ、どの主権も及ばない九龍城砦にはそれらの人々がなだれ込んだ。1949年10月に中国共産党率いる中華人民共和国が樹立しても難民がなだれ込む状況は全く変わらなかった。
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城壁が取り壊されたことで、跡地には難民のバラックが建ち始める。中国大陸の情勢が落ち着きつつあった1950年代後半から1960年代前半においても難民の流入は止まらず、さらに、1960年代後半に中華人民共和国国内で始まった毛沢東らによるプロレタリア文化大革命の開始により、これを逃れる難民で人口流入は更に激しくなり、過度の居住人口により次第に無計画な増築によるスラムが出来上がっていった。
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1960年代後半から1970年代にかけては鉄筋コンクリート(RC造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化し、「九龍城には一回入ると出てこられない」とも言われるようになった。また行政権が及ばなかったために売春や薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法」地帯を意味する「三不管」(サンブーグヮン)の地域と呼ばれるようになり、黒社会(暴力団)である三合会の拠点となっていた。
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そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国および中華人民共和国内のみで通用する免許で開業した歯科医院や海賊版の出版物の出版、コピー商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていた。また衛生法上許可し難い環境下での中華料理の点心製造などがあったが、最盛期には香港のホテルや飲食店で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたとの説もある。城内警備においては1970年代後半から1990年代にかけて住民達が一丸となり自警団を組織し治安の改善を図った。
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1984年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相と中華人民共和国の趙紫陽首相が行った中英連合声明調印により、香港が1997年7月1日に中華人民共和国に返還されることが決まり、1987年には香港政庁が九龍城砦を排斥し、周囲のアパートや郊外のベッドタウンに政庁が建設した高層アパートへ住民を移住させる方針を発表したが、補償などの問題で住民はこれに異を唱えた。また何十年もの間行政が立ち入ることはなかったが、共同声明の後に漸く香港警察の警官が定期的に巡回を行った。その頃には香港の他地域よりもむしろ城内の方が安全であったと伝えられている。
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1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、1995年には、同じ街区の低層スラムとなっていた箇所で早期に整備され、小規模のサッカー場やバスケットボールコート、マウンテンバイクの走行コースなどが設置された賈炳達道公園 (Carpenter Road Park) や、同時期に建設されたショッピングセンターの九龍城廣場 (Kowloon City Plaza) に隣接する形で、九龍寨城公園 (Kowloon Walled City Park) が造成された。
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再開発後の九龍寨城公園には中国趣味の庭園や、在りし日の九龍城砦の状況を簡単に展示する資料館がつくられた。この資料館は九龍城砦の中心に最後まで残され老人ホームとして使われていた砦時代の平屋の兵舎を改修、そのまま流用している。
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また、九龍城砦の解体時に廃棄物の中から発見された扁額や大砲などの多くの文化財は当初香港政庁の計画では九龍の尖沙咀 (Tsim Sha Tsui) にある香港歴史博物館(英語版)で保存、展示する予定であったが城内に住む住民の抗議により九龍寨城公園の資料館で保管することになった。
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|所在地|香港|
|現存状態|兵舎・公園|
|城郭構造|城塞都市|

九龍城砦の存在は、世界でも指折りの豊かな地域となった香港にとれば人々の関心も薄く、もはや過去の遺物であった。香港政庁など行政機関にとっては、できるだけ早い排斥が念願だったと思われる。しかし、史上稀に見る規模で展開されたスラム街区は、学術的にもその資料的価値は非常に大きい。遺構の数々は建築学または環境学などの面において極端な例ではあるが、現在ではアジアでの都市構造の貴重なサンプルである。



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