九戸城 のバックアップソース(No.7)
*現実の城情報 [#information]

明応年間の1500年頃に築かれ、三戸南部氏や八戸南部氏とともに南部氏一族である九戸氏が居城とした。
九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部氏では宗家の跡継ぎ問題を発端とし、三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。
信直の宗家相続を不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、5000人の兵をもって九戸城に籠城した。
九戸城は6万の豊臣軍に包囲されたが、馬淵川・白鳥川・猫渕川に囲まれた九戸城は天然の要害で、容易には落ちなかった。 
そこで豊臣軍は和睦を持ちかけ、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した… 
はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。 (実際、首を刎ねられた男女の人骨が出土している。) 
世にいう九戸政実の乱である。
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乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷や浅野長吉らによって上方風の城郭に改築された。 
この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。
また改築前の九戸城は各曲輪が独立した構造だったが、改築後は曲輪に主従関係がはっきりと見られるようになった。
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南部氏は九戸城を福岡城と改称し、慶長2年(1597年)に[[盛岡城]]を普請するまで九戸城を本拠として使用した。寛永13年(1636年)に九戸城は廃城となった。 
城跡は昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。
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歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が建立されている。 

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|所在地|岩手県二戸市福岡城ノ内|
|現存状態|空堀、石垣、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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