九戸城 のバックアップ差分(No.3)

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九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市内にあった日本の城(平山城)。昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。

明応年間の1500年ごろ九戸光政によって築城。三戸南部氏や八戸南部氏とともに南部氏一族である九戸氏が居城とした。
*現実の城情報 [#information]
九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。
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明応年間の1500年ごろ築城。三戸南部氏や八戸南部氏とともに南部氏一族である九戸氏が居城とした。正確な年は不明であるが、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。
九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部宗家の跡継ぎ問題を発端とし、三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。南部宗家は信直が相続し、天正18年(1590年)に信直は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したため南部領を安堵され、名実ともに南部家当主となった。
これを不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、前年の奥州仕置を不服とする諸将をも引き込んだ大乱を起こすこととなった。政実5000人の兵をもって九戸城に籠城。
同時に葛西・大崎一揆も再発し、秀吉は奥州再仕置を命じ、豊臣秀次を総大将とする大軍を送り込んだ。九戸城は6万の豊臣軍に包囲されたが、馬淵川・白鳥川・猫渕川に囲まれ一部は断崖絶壁となった九戸城は天然の要害で、容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は九戸氏の菩提寺である長興寺の住職に説得を依頼し、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した…
はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる(実際、首を刎ねられた男女の人骨が出土している)。
世にいう九戸政実の乱である。

乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷によって上方風の城郭に改築された。
この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。
改築された城は「福岡城」と名付けられ、南部氏が寛永13年(1636年)に盛岡に移るまで南部氏の本拠として用いられた。

はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。
この乱は秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二の丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている。
世にいう九戸政実の乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。
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乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷や浅野長吉らによって上方風の城郭に改築された。
改築された城は「福岡城」と名付けられ、本丸をL字型に囲む規模の大きい空堀が設けられ、直線的に掘られた堀には石垣も普請された。この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。また虎口も洗練された構造となっており、いかにも近世初頭の様相を呈するものとなっている。
なぜ豊臣勢が乱後に九戸城の改修を行ったのかを考えると、従前の九戸城では豊臣政権の人々が納得できる城館の構造ではなかったからと考えられる。豊臣氏に帰属した南部氏の新たな本拠としての体裁を整えていないと判断されたためか、織豊城郭で培われた築城技術が投入されての改修が行われたことになる。それほどまでに、戦国時代末期の南部氏の城館と織豊城郭には差異があった。
改修前の九戸城は、本丸周辺に二の丸の他に石沢館・若狭館・松の丸など、規模の大きな空堀で隔てられた広い面積を有する曲輪が存在していた。これは[[浪岡城]]や[[根城]]のような、一つ一つの曲輪が独立して存在し、全体として曲輪が群在する、群郭式の城館といえる。
群郭式の城館は求心構造が弱く、ピラミッド型の権力構造ではなく一族の連合による領主間の横のつながりが表れた構造となっており、当時の東北地方の地域性を反映しているといえる。
これが九戸政実の乱後の改修によってL字型の空堀・石垣・虎口が普請されたことで、主従関係のはっきりした本丸と二の丸が築かれることとなった。
南部氏は慶長2年(1597年)[[盛岡城]]を普請するまで九戸城を本拠として使用した。寛永13年(1636年)に九戸城は廃城となった。
城跡は昭和10年(1935年)6月7日、国の史跡に指定され、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている
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歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が建立されている。

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|所在地|岩手県二戸市福岡城ノ内|
|現存状態|空堀、石垣、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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