戦国時代に北条氏と抗争を繰り広げた安房の雄、里見氏最盛期の居城で、房総最大級の規模を誇る。 天文末期、上総武田氏が内乱によって衰え、西上総では安房から北上する里見氏と相模から侵攻する北条氏が衝突した。 里見氏の上総進出は天文10年代(1540年代)と考えられ、里見義堯は上総武田氏の古久留里城の下に新たな城を築いた。 義堯は久留里城を本城として北条氏と戦い、上杉謙信の関東出兵もあって北条氏から西上総を奪い、さらに下総まで侵攻する。 しかし天正2年(1574年)に義堯が、その子義弘が天正6年(1578年)に死ぬと里見氏では内乱が起こり、久留里城は政治的・戦略的地位を失っていったが、小田原征伐までは里見氏の城として存続していた。 天正18年(1590年)の小田原征伐で里見氏は上総の所領を没収され、久留里城には徳川家康の家臣大須賀忠政が入った。 延宝7年(1679年)に土屋氏が改易され一時廃城となったが、寛保2年(1742年)に入った黒田氏にもとで明治維新を迎えた。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示