中城城 のバックアップ差分(No.3)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)
//編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上)
//本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。
中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に位置する城跡であり、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸の居城であった。国の史跡、世界遺産に指定されている。
*現実の城情報 [#information]

中城城(なかぐすくじょう)は15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸の居城である。沖縄本島中部に位置する城で6つの郭からなる六連郭の構造であった。当遺跡は国の史跡、平成12年(2000年)には世界遺産に指定されている。
豪族の先中城按司(さきなかぐすくあじ)が14世紀ごろに築城したとされ、発掘調査でもそのころの築城と見ている。1440年ごろ、築城の名人・護佐丸(ござまる)が王令により座喜味城より移り、三の郭・北の郭を増築するといった拡大改修した。
しかし、阿麻和利の陰謀で護佐丸は謀反を疑われ、首里王府軍によって1458年に滅ぼされた。その後、城は王府直轄の地となり王子が居城したと伝わる。1729年には一の郭に中城間切りの番所が置かれ、1853年にはペリー艦隊の調査隊が測量図を作成した。
明治15年(1882年)には番所内に中城小学校が開設、明治41年(1908年)には町村制の実施で間切番所は中城役場となる。小学校は時代が変わると別の場所へ移転したが、役場は沖縄戦で消失するまで残った。

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地||
|現存状態||
|城郭構造||
|所在地|沖縄県中頭郡中城村|
|現存状態|城門、石垣|
|城郭構造|連郭式山城|

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)};
}}}
#style(class=submenu){{{
**城郭構造 [#m9080134]

中城湾を望む標高約160メートルの琉球石灰台地に、南西から北東にかけて築かれた連郭式山城であり、城郭面積は14500平方メートル(4400坪)にもおよび、創建以来拡張されて六連郭の構造となった。
城の両端に正門と裏門を設けているが、素直にここを敵方が潜るとなると弓矢の的になってしまう。南西から南東にかけては急な崖が続くうえに、北側の斜面もかなりの傾斜地となっていることから非常に攻めにくい城であったと思われる。
六連郭は一の郭から三の郭まで一直線、あとは西の郭、北の郭、南の郭からなっており、北には裏門、南には正門がある。北の郭にはウフガー(大井戸)と呼ばれる貴重な水源があった。地下からは城外へと通じる排水溝が発見されている。
三の郭と北の郭をつなぐ階段は急勾配で幅が広く、横には「アザナの石垣」と呼ばれる堅牢な物見台の石垣がある。なぜここまで広い階段を必要としたのか、「護佐丸の威厳を示すため」や「兵士が多く移動するため」など仮説は尽きないが判然としない。
南の郭には複数の御嶽(ウタキ)が存在するほか、城壁には敵方を射掛けるための狭間が開けられている。石垣の積方も各所様々である。南の郭は野面積を、ニの郭は布積のうえ石材のズレを抑えるため接合部をカギ状に配した。
三の郭は相方積といって石のそれぞれの接合面に合わせて積み上げる方式を採用している。亀の甲羅、または扇状など見た目は様々で、積み上げる技術もそれ相応に要する技法である。
ちなみに、一の郭と二の郭は門によってつながっているが、ニの郭と三の郭は門が設けられておらず、直接つながっていない。横に作った急勾配の階段で行き来することとなる。これは改修時に敢えて石積みを壊さず増築したためであった。
}}}
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS