上総松尾城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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上総松尾城は柴山藩の藩庁として版籍奉還後に建設が進められたものの未完成に終わった稜堡式城郭である。松尾城の名は移封前に在していた[[掛川城]]の別名からとったものであるという
木戸川が九十九里浜の平地部に流れこむ手前の東岸台地に計画され、台地の最も高いところに藩庁を中心とする政庁機能を持たせた他、北東に堀切を挟んで一段低い台地を作り、そこに知藩事邸を置くという珍しい構造も有している。
[[五稜郭]]などと同じ稜堡式城郭であるが、厳密には[[五稜郭]]などが星形要塞なのに対して、当城は榴弾の登場により価値が低くなった星形要塞を改良することで生まれた多角形要塞に区分される。
上総松尾城の建設を進めた芝山藩は、明治元年(1868年)掛川藩主太田資美が大政奉還によって徳川家の家督を継いだ家達が静岡藩に移されたことによる玉突きで移封され誕生したもので、当初は現柴山町の観音教寺に仮の政庁を置いていたという。
翌明治2年(1869年)版籍奉還によって知藩事となった太田資美は正式な藩庁を建設することを決め、それによって計画されたのがこの城である。
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縄張りは藩の算学者であった磯辺泰によって行われたとされ、上述した中心部分が近代的な要塞を企図している一方、郭外は侍屋敷などを配して土塁などでを堀で囲むという伝統的な城下町の町割りが行われている。
翌年には藩庁機能の基本部分と城下町の原型が完成したことで太田資美は政庁を上総松尾城に移し、藩の名前も松尾藩に改めた。
その後完成を目指したものの、明治4年(1871年)の廃藩置県によって松尾藩が消滅したため建設は中止となり、未完に終わった。
すでに建築されていた政庁機能は廃藩置県によって設置された松尾県の県庁として利用されるものとされたが、同年内に今度は松尾県が木更津県に吸収され消滅したため完全に無用となり、これをもって廃城となった。
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藩庁跡地は自動車学校、知藩事邸跡地は現在は松尾中学校、さらに跡地内には松尾高校などが建てられるなどした他台地の地形自体も大きな改変を受けたとされ、
道路の通っている堀切跡の横に土塁とおぼしき遺構があったりする他は当時のままの遺構はほぼ残っていないとされ、松尾中学校付近にある城塁も中学校建設により破壊されたのをそれっぽく再建したものであるという。
一方、廃城によって多くの建造物が払い下げ・移築されたこともあり、知藩事邸の長屋門が城下に、さらに知藩事邸の建物そのものも匝瑳市内に残っているという。
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|所在地|千葉県山武市松尾町松尾|
|現存状態|土塁|
|城郭構造|稜堡式城郭(多角形要塞)|
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