上原城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報諏訪大社の大祝を代々務めてきた名族、諏訪惣領家が本拠地とした城。築城年代は明らかでないが、諏訪大祝家の記録である『守矢満実書留』には文正元年(1466年)に諏訪惣領家の諏訪信満が諏訪大社下社の御頭役を務めたという記述があることから、この頃には諏訪氏は上原の地に居住し上原城を築いていたとされ、以後は諏訪氏5代70余年間の居城となった。 続きをクリックで表示 諏訪氏は『守矢満実書留』によると文明15年(1483年)に上原城の諏訪惣領家と干沢城の諏訪大祝家との間で内紛が起こり、他の地域の国人や土豪を巻き込んで一族内で衝突を繰り返した。 しかし天文11年(1542年)、頼満の孫・頼重の代で武田晴信は諏訪へと侵攻し、また諏訪氏の一族で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う高遠城主高遠頼継が晴信に呼応して諏訪領に攻め込み、頼重は上原城を捨てて桑原城に逃れたのちに降伏した。 しかし天文11年(1542年)、頼満の孫・頼重の代で武田晴信は諏訪へと侵攻し、また諏訪氏の一族で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う高遠城主高遠頼継が晴信に呼応して諏訪領に攻め込み、頼重は上原城を捨てて桑原城に逃れたのちに降伏した。 頼重・頼高父子は甲府に連行されて自刃、諏訪惣領家は滅亡し、頼重の娘・諏訪御料人は晴信の側室として躑躅ヶ崎館に入り、武田勝頼を産むことになる。 以後上原城は武田氏による信濃支配の拠点となり、諏訪郡代(諏訪郡司)の板垣信方が城代として入った。『高白斎記』には天文13年(1544年)に信方が板垣平に屋敷を建てたことが記されており、これは上述の発掘調査でも明らかとなっている。 天文17年(1548年)、信方が葛尾城主村上義清との上田原の戦いで戦死すると、上原城の城代は在城衆の長坂光堅が務めた。 上原城は武田氏による信濃支配の拠点として重要な役割を担っていたが、翌年高嶋城?に光堅が居城を移したことで上原城の重要性は失われた。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐の際、新府城から出陣した武田勝頼は上原城を陣城として用いたが、穴山梅雪が離反したため新府城に撤退した。その後武田氏の滅亡とともに上原城は廃城となった。
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