上原城 のバックアップ差分(No.2)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

諏訪大社の大祝を代々務めてきた名族、諏訪惣領家が本拠地とした城。
築城年代は明らかでないが、文正元年(1466年)に諏訪信満が築いたとされ、以後は諏訪氏5代70余年間の居城となった。
諏訪大社の大祝を代々務めてきた名族、諏訪惣領家が本拠地とした城。築城年代は明らかでないが、諏訪大祝家の記録である『守矢満実書留』には文正元年(1466年)に諏訪惣領家の諏訪信満が諏訪大社下社の御頭役を務めたという記述があることから、この頃には諏訪氏は上原の地に居住し上原城を築いていたとされ、以後は諏訪氏5代70余年間の居城となった。
上原城は諏訪地方へつながる街道を押さえる位置にある標高978メートルの金比羅山に築かれ、山頂の城郭部分、中腹の板垣平に構えられた居館部分、そして山麓の城下で構成される根小屋式城郭として、諏訪氏による諏訪地方の拠点として機能した。
諏訪氏は信満の子・頼満が諏訪地方を統一し、また武田信虎を破るなど最盛期を築き、諏訪氏中興の祖となった。
城郭部分では尾根の頂部に主郭が置かれ、北側斜面には階段状に曲輪が並び巨大な堀切も設けられた。また南東斜面には諏訪地域の他の城にはあまり見られない畝状竪堀群がある。居館があった板垣平では発掘調査により諏訪氏時代の掘立柱建物跡と武田氏時代の礎石建物跡が確認され、板垣平の眼下の城下には15世紀後半以降の堀が発見された。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

しかし天文12年(1542年)、頼満の孫・頼重の代で武田晴信は諏訪へと侵攻し、また諏訪氏の一族で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う[[高遠城]]主高遠頼継が晴信に呼応して諏訪領に攻め込み、頼重は上原城を捨てて桑原城に逃れたのちに降伏した。
諏訪氏は『守矢満実書留』によると文明15年(1483年)に上原城の諏訪惣領家と干沢城の諏訪大祝家との間で内紛が起こり、他の地域の国人や土豪を巻き込んで一族内で衝突を繰り返した。
やがて信満の子・頼満によって諏訪惣領家が諏訪地方を統一し、また武田信虎を破るなど最盛期を築き、諏訪氏中興の祖となった。
しかし天文11年(1542年)、頼満の孫・頼重の代で武田晴信は諏訪へと侵攻し、また諏訪氏の一族で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う[[高遠城]]主高遠頼継が晴信に呼応して諏訪領に攻め込み、頼重は上原城を捨てて桑原城に逃れたのちに降伏した。
頼重・頼高父子は甲府に連行されて自刃、諏訪惣領家は滅亡し、頼重の娘・諏訪御料人は晴信の側室として[[躑躅ヶ崎館]]に入り、武田勝頼を産むことになる。
以後上原城は武田氏による信濃支配の拠点となり、諏訪郡代(諏訪郡司)の板垣信方が城代として入った。
以後上原城は武田氏による信濃支配の拠点となり、諏訪郡代(諏訪郡司)の板垣信方が城代として入った。『高白斎記』には天文13年(1544年)に信方が板垣平に屋敷を建てたことが記されており、これは上述の発掘調査でも明らかとなっている。
天文17年(1548年)、信方が[[葛尾城]]主村上義清との上田原の戦いで戦死すると、上原城の城代は在城衆の長坂光堅が務めた。
翌年に高島城が築城され光堅が居城を移したことで上原城の重要性は失われ、武田氏の滅亡とともに廃城となった。
上原城は武田氏による信濃支配の拠点として重要な役割を担っていたが、翌年[[高嶋城]]に光堅が居城を移したことで上原城の重要性は失われた。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐の際、[[新府城]]から出陣した武田勝頼は上原城を陣城として用いたが、穴山梅雪が離反したため新府城に撤退した。その後武田氏の滅亡とともに上原城は廃城となった。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|長野県茅野市茅野上原|
|現存状態|土塁、堀切など|
|城郭構造|山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)




ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS