長享元年(1487年)、六角高頼が三雲典膳実乃に命じて観音寺城の詰めの城として築かせた。 はじめは吉永城と呼ばれたが、実乃のあとを継いだ行定が改修すると、三雲城と改められたとされる。 三雲氏は甲賀五十三家に数えられ、9万石の領地が与えられていたといい、その所領高には疑問が残るものの、六角氏からの厚い信頼を寄せられていたと言える。 また、真田十勇士として知られる猿飛佐助には架空説と実在説があるが、歴史小説家の司馬遼太郎は「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」としており、事実であれば三雲城は猿飛佐助の故郷の城ということになる。
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三雲城は「八丈岩」と呼ばれる巨大な岩の背後に聳える標高334メートルの山に築かれた。 巨石群の中には、六角氏の家紋「四つ目結」が刻まれた岩も残っている。 登城口を過ぎて二手に分かれた道の左奥に進むと、低く積まれた石段が何度も現れるなど、数多くの石垣や土塁が残る。
観音寺騒動により弱体化していた六角義賢・義治父子は、永禄11年(1568年)に織田信長に敗れると、三雲城へ逃れた。 その後、元亀元年(1570年)の野洲河原の戦い(落窪合戦)で再び敗れると和議を結んだが、この間に三雲城は佐久間信盛の攻撃を受けて落城したとも言われる。 いずれにせよ三雲成持は六角氏の再起を支援するもほどなく浪人となり、のちの織田信雄、蒲生氏郷、徳川家康に仕えたという。 三雲城は枡形虎口という織豊系城郭の特徴がみられることから三雲氏の没落後に織田氏が改修したとも考えられ、正確な廃城時期は不明だが、天正十三年(1585年)には中村一氏が築いた水口岡山城に石垣が転用されたと伝わる。
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