三田城 のバックアップの現在との差分(No.4)

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*現実の城情報 [#information]

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三田城(さんだじょう)は、摂津国・播磨国・丹波国から伸びる街道の合流点にあたり、有馬郡の中心地としても古くから要所として栄えていた三田の地に築かれた平山城で、車瀬城とも呼ばれる。
鎌倉幕府が滅び南北朝の争いが始まると、北朝方であった播磨国の赤松氏が有馬郡を制圧、細川氏が摂津国守護となった後も赤松氏が有馬郡守護となるなど、赤松氏と縁が深い土地であった。
有馬郡守護有馬氏は赤松氏の一族とされ、室町期は赤松・細川・山名の間で、そして戦国期は三好、織田などの間で常に争乱に巻き込まれながら三田を中心に代々有馬郡を治め続けた。
三田城は有馬郡統治の中心地として有馬氏によって築かれたとも、戦国期荒木氏の時代に木下重堅が築いたとも、さらには本能寺の変後山崎片家の時代に築かれたとも、と諸説入り乱れており正確な築城年代ははっきりしていない。
正確には、これらが同一の城を指したものであるかすら判然としておらず、有馬氏時代からの三田の統治拠点の歴史の実態はほとんどわかっていないといって過言ではないだろう。
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有馬氏嫡流は天正3年(1575年)に荒木村重によって当主国秀が自害に追い込まれたことで断絶してしまう。
これは国秀が村重と対立していたために攻撃を受けたとも、一方的に不義を追求された国秀が潔白を主張するために自害したともされる。
その後は村重の家臣木下重賢が入り、村重が織田信長に反旗を翻した際には織田方の攻撃を受け、その後は池田氏、三好信吉(羽柴秀次)、山崎片家・家盛親子と度々城主が入れ替わるが、関ヶ原の合戦において山崎家盛は西軍に属したため因幡に転封、かわって有馬則頼が入った。
有馬則頼は祖父則景(国秀の祖父村則の弟とされる)から始まる有馬氏庶流の出で、別所・淡河氏と対立しながらも播磨国三木に拠点を築いた有馬重則の子である。
則頼自身は豊臣秀吉の御伽衆となったことで家運が開け淡河城主として、渡瀬繁詮の家老となった則頼の子豊氏は、渡瀬繁詮が秀次事件で改易となった際、その所領遠江国横須賀城3万石をそっくり引き継いで治めていた。
則頼自身は豊臣秀吉の御伽衆となったことで家運が開け淡河城主として、渡瀬繁詮の家老となった則頼の子豊氏は、渡瀬繁詮が秀次事件で改易となった際、その所領遠江国[[横須賀城]]3万石をそっくり引き継いで治めていた。
則頼、豊氏親子は関ヶ原の合戦で東軍につき、その功で則頼は有馬氏旧領三田藩2万石を、豊氏は丹波福知山藩6万石を治めることとなり、則頼の死後は豊氏が三田も治めた。
豊氏は大坂の役でも徳川方として活躍、その功で元和6年(1620年)筑後国久留米藩21万石の国持ち大名となり、当地を去った。
その後は寛永3年(1626年)から松平重直が6年治めたのち、寛永10年(1633年)家督争いの懲罰の形で九鬼久隆が三田藩3万5千石として入り、三田城の一部を使い三田陣屋として明治維新まで当地を治めたという。
このことから、三田陣屋の整備に伴い三田城そのものは廃城になったと考えられている。
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城跡の大半は現在は有馬高校から三田小学校の敷地内にあたり、有馬高校体育館の改築工事に伴う発掘調査では、少なくとも16世紀後半、おそらく山崎氏時代とされる遺構として堀などともに陶磁器などが見つかっている。
また、三田小学校での発掘調査でも三田陣屋時代とされる建物の礎石などが見つかるなど、多くの知見が得られている。
現在目視できる遺構は乏しいが、有馬高校敷地内には内堀であったとされる水路等が残されている。

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|所在地|兵庫県三田市屋敷町・天神|
|現存状態|内堀跡|
|城郭構造|平山城|
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&color(White,Maroon){三田陣屋の大池(クリックで表示)};
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**三田陣屋の大池 [#a652ce69]

三田小の南に大きな溜池が存在する。これは三田御池(大池)と呼ばれ、九鬼氏時代に元々水軍衆の流れを組む九鬼氏の伝統を内陸の三田の地で保つため、この池を使って水軍訓練を行っていたと言われている。

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&color(White,Maroon){競馬界に残る摂津有馬氏の名跡(クリックで表示)};
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**競馬界に残る摂津有馬氏の名跡 [#f24af438]

久留米に移った有馬氏は明治維新まで同地を治め続け、明治期になると華族となり有馬氏14代当主有馬頼万は華族令が公布されると伯爵に叙せられた。
その子15代当主有馬頼寧は政治家として農政などに携わる他、プロ野球チームを一時的ながら所持するなどスポーツにも積極的に関わった。
戦後、頼寧は日本中央競馬会第2代理事長となりレースの実況放送を始めるなど多くのアイデアを考案、ファンサービスに努め、現在に続く日本中央競馬会の基盤作りに大きく貢献した。
そして、彼の最大の功績とされるのが、プロ野球のオールスターゲームのファン投票にならった、ファンの人気投票によって出走馬を選出するレース「中山グランプリ」の創設であった。
昭和31年(1956年)暮れに行われた第1回レースは頼寧の期待通り12頭立ての中に天皇賞優勝馬3頭、クラシック競走優勝馬4頭と現役最強馬決定戦の様相となり、中山競馬場には平時の2.5倍以上の観客が押し寄せるなど大盛況となった。
その直後の昭和32年(1957年)1月7日頼寧は急性肺炎により急死、日本中央競馬会は彼の功績を称えるため、この年の暮れの第2回中山グランプリを「有馬記念」へと改称((中山グランプリは元々レース名の仮案で、第1回開催においてファンからレース名のアイデアも募集したがめぼしい案がなく第1回は仮案のまま開催されたという経緯がある))した。
有馬記念はファン投票による選出制度とともに暮れの大レースとして現在まで続いており、平成8年(1996年)には馬券の売上げがギネス記録を達成するなど、日本の競馬界を代表するレースの1つとなっている。

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