三田城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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三田城(さんだじょう)は兵庫県三田市(摂津国有馬郡)にあった平山城。車瀬城とも。
三田は摂津・播磨・丹波から伸びる街道の合流点であり、有馬郡の中心地としても古くから要所として栄えていた。
鎌倉幕府が滅び南北朝の争いが始まると、北朝方であった播磨の赤松氏が有馬郡を制圧、細川氏が摂津守護となった後も赤松氏が有馬郡守護となるなど、赤松氏と縁が深い土地であった。
有馬郡守護有馬氏は赤松氏の一族とされ、室町期は赤松・細川・山名の間で、そして戦国期は三好、織田などの間で常に争乱に巻き込まれながら三田を中心に代々有馬郡を治め続けた。
三田城は有馬氏の有馬郡当地の中心地として有馬氏に築かれたとも、戦国期荒木氏の時代に木下重堅が築いたとも、さらには本能寺の変後山崎片家の時代に築かれたとも、と諸説入り乱れており正確な築城年代ははっきりしていない。
(正確には、これらが同一の城を指したものであるかすら判然としておらず、有馬氏時代からの三田の統治拠点の歴史の実態はほとんどわかっていないといって過言ではないだろう)
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有馬郡守護有馬氏は国秀の時代の天正3年(1575年)に荒木村重によって自害に追い込まれ(村重と対立していたためとも、一方的に不義を追求された国秀が潔白を主張するために自害したも)有馬氏嫡流は断絶してしまう。
その後は荒木村重の家臣木下重賢が入り、荒木村重が織田信長に反旗を翻した際に織田方の攻撃を受け、その後は池田氏、三好信吉(羽柴秀次)、山崎片家・家盛親子と度々城主が入れ替わるが、
関ヶ原の合戦において山崎家盛は西軍に属したため因幡に転封、かわって有馬則頼が入った。
有馬則頼は祖父則景から始まる有馬氏庶流の出で、別所・淡河氏と対立しながらも播磨国三木に拠点を築いた有馬重則の子である。
則頼自身は豊臣秀吉の御伽衆となったことで家運が開け淡河城主として、渡瀬繁詮の家老となった則頼の子豊氏は、渡瀬繁詮が秀次事件で改易となった際、その所領遠江国横須賀城3万石をそっくり引き継いで治めていた。
則頼、豊氏親子は関ヶ原の合戦で東軍につき、その功で則頼は有馬氏旧領三田藩2万石を、豊氏はその北丹波福知山藩6万石を治めることとなり、則頼の死後は豊氏が三田も治めた。
豊氏は大坂の役でも徳川方として活躍、その功で元和6年(1620年)筑後久留米藩21万石を得ることになり、当地を去った。
その後は寛永3年(1626年)松平重直が6年治めた後、寛永10年(1633年)家督争いの懲罰の形で九鬼久隆が三田藩3万5千国として入り、三田城の一部を使い三田陣屋として明治維新まで当地を治めたという。
このことから、三田陣屋の整備に伴い三田城そのものは廃城になったと考えられている。

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城跡の大半は現在は有馬高校から三田小の敷地内にあたり、有馬高校体育館の改築工事に伴う発掘調査では、少なくとも16世紀後半、おそらく山崎氏時代とされる遺構として堀などともに陶磁器などが見つかっている。
また、三田小での発掘調査でも三田陣屋時代とされる建物の礎石などが見つかるなど、多くの知見が得られている。
現在目視できる遺構は乏しいが、有馬高校敷地内には内堀であったとされる水路等が残されている。
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|所在地|兵庫県三田市屋敷町・天神|
|現存状態|内堀跡|
|城郭構造|平山城|

*三田陣屋の大池 [#a652ce69]
三田小の南に大きな溜池が存在する。これは三田御池(大池)と呼ばれ、九鬼氏時代に元々水軍衆の流れを組む九鬼氏の伝統を内陸の三田の地で保つため、この池を使って水軍訓練を行っていたと言われている。

*摂津有馬氏の名跡が残るもの [#f24af438]
久留米に移った有馬氏は明治維新まで同地を治め続け、明治になると華族となり有馬氏14代当主有馬頼万は華族令が公布されると伯爵に叙せられた。
その子15代当主有馬頼寧は政治家として農政やスポーツなどに積極的に関わった。
戦後、頼寧は日本中央競馬会第2代理事長となり、レースの実況放送を始めるなど、多くのアイデアを考案、ファンサービスに努めた。
そして、彼の最大の功績とされるのが、プロ野球のオールスターゲームのファン投票にならった、ファンの人気投票によって出走馬を選出するレース「中山グランプリ」の創設であった。
第1回レースは盛況のうちに終わったが、直後頼寧は急性肺炎により死去、彼の功績を称えるため、中山グランプリは第2回レースより「有馬記念」に改称され、ファン投票による選出制度とともに暮れのレースとして現在まで続いている。

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