三田城 のバックアップ(No.1)

現実の城情報 Edit

三田城(さんだじょう)は兵庫県三田市(摂津国有馬郡)にあった平山城。車瀬城とも。
三田は摂津・播磨・丹波から伸びる街道の合流点であり、有馬郡の中心地としても古くから要所として栄えていた。
鎌倉幕府が滅び南北朝の争いが始まると、北朝方であった播磨の赤松氏が有馬郡を制圧、細川氏が摂津守護となった後も赤松氏が有馬郡守護となるなど、赤松氏と縁が深い土地であった。
有馬郡守護有馬氏は赤松氏の一族とされ、室町期は赤松・細川・山名の間で、そして戦国期は三好、織田などの間で常に争乱に巻き込まれながら三田を中心に代々有馬郡を治め続けた。
三田城は有馬氏の有馬郡当地の中心地として有馬氏に築かれたとも、戦国期荒木氏の時代に木下重堅が築いたとも、さらには本能寺の変後山崎片家の時代に築かれたとも、と諸説入り乱れており正確な築城年代ははっきりしていない。
(正確には、これらが同一の城を指したものであるかすら判然としておらず、有馬氏時代からの三田の統治拠点の歴史の実態はほとんどわかっていないといって過言ではないだろう)


所在地兵庫県三田市屋敷町・天神
現存状態内堀跡
城郭構造平山城

三田陣屋の大池 Edit

三田小の南に大きな溜池が存在する。これは三田御池(大池)と呼ばれ、九鬼氏時代に元々水軍衆の流れを組む九鬼氏の伝統を内陸の三田の地で保つため、この池を使って水軍訓練を行っていたと言われている。

摂津有馬氏の名跡が残るもの Edit

久留米に移った有馬氏は明治維新まで同地を治め続け、明治になると華族となり有馬氏14代当主有馬頼万は華族令が公布されると伯爵に叙せられた。
その子15代当主有馬頼寧は政治家として農政やスポーツなどに積極的に関わった。
戦後、頼寧は日本中央競馬会第2代理事長となり、レースの実況放送を始めるなど、多くのアイデアを考案、ファンサービスに努めた。
そして、彼の最大の功績とされるのが、プロ野球のオールスターゲームのファン投票にならった、ファンの人気投票によって出走馬を選出するレース「中山グランプリ」の創設であった。
第1回レースは盛況のうちに終わったが、直後頼寧は急性肺炎により死去、彼の功績を称えるため、中山グランプリは第2回レースより「有馬記念」に改称され、ファン投票による選出制度とともに暮れのレースとして現在まで続いている。

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