三瀬城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報三瀬城(みつせじょう)は佐賀県佐賀市(肥前国佐賀郡)にあった山城。 佐賀平野背後にある肥前筑前との国境をなす背振山地の一角、三瀬峠の近くの標高561mの山に築かれている。三瀬峠は古くから肥前と筑前を結ぶ経路の1つであり、これをおさえる目的があったものとされる。 佐賀平野背後にある肥前と筑前の国境をなす背振山地の一角、三瀬峠の近くの標高561mの山に築かれている。三瀬峠は古くから肥前と筑前を結ぶ経路の1つであり、これをおさえる目的があったものとされる。 山頂を主郭とし、そこから南に二の郭、さらに南の斜面に沿うように小規模な郭を多数配置して守りを固めている。 三瀬城を築いたのは当地の領主野田(三瀬)氏であったとされ、その築城年代は享禄年間の1530年前後であると考えられている。 続きをクリックで表示 築城と同時期に、剣術指南として当地に迎えられた神代勝利(神代氏は筑後の国人領主であったが、肥前に落ち延びていた)は信望を集め、 竜造寺隆信が再度佐賀に復帰し少弐氏を圧倒し始めるようになると勝利はこれに対抗、幾度も龍造寺勢に攻撃を跳ね返し、幾度か山内を追われるもその都度復帰することを繰り返し、少弐氏が滅んだ後も龍造寺隆信に抵抗し続けた。 竜造寺隆信が再度佐賀に復帰し少弐氏を圧倒し始めるようになると勝利はこれに対抗、幾度も龍造寺勢の攻撃を跳ね返し、幾度か山内を追われるもその都度復帰することを繰り返し、少弐氏が滅んだ後も龍造寺隆信に抵抗し続けた。 最終的に永禄5年(1562年)勝利の孫娘が竜造寺隆信の三男家信と縁組することで和睦が成立、これにより神代氏の独立が保たれた。 勝利の死後、跡を継いだ神代長良は再度龍造寺氏と対立することとなり、これに敗れると大友氏を支援を受けて抵抗を続けたが、最終的に鍋島直茂の弟とされる小河信俊の子家良を養子とし竜造寺氏の配下となった。 勝利の死後、跡を継いだ神代長良は再度龍造寺氏と対立することとなり、これに敗れると大友氏の支援を受けて抵抗を続けたが、最終的に鍋島直茂の弟とされる小河信俊の子家良を養子とし竜造寺氏の配下となった。 後に鍋島直茂が竜造寺氏の勢力を引き継ぐと、その命により神代家良は三瀬の地を離れることとなり、この頃に三瀬城は廃城になったと考えられる。 その後の神代氏は家良の出自から、江戸時代には佐賀藩において藩主親類格となり、姓を鍋島に改め川久保鍋島氏として藩中で重きをなした。 その後の神代氏は家良の出自から佐賀藩において藩主親類格となり、姓を鍋島に改め川久保鍋島氏として藩中で重きをなした。 城跡は山中ではあるものの三瀬城跡として縄張りを示した案内板が整備されている他、現在でも土塁や堀切、石積等の遺構を確認することできる。 城跡は山中ではあるものの三瀬城跡として縄張りを示した案内板が整備されている他、現在でも土塁や堀切、石積等の遺構を確認することができる。
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