三ツ寺遺跡 のバックアップ(No.1)

現実の城情報 Edit

3~7世紀、全国に無数の古墳が造られた時代は古墳時代と呼ばれ、豪族たちは大きな古墳を造るだけでなく、生きている間の住まいも城のような広大な屋敷を造っていた。そのなかで、後の戦国大名の館城のような、居住空間の防御から発達した城が登場するようになった。
そのような古墳時代の館城の代表的なものが、群馬県の三ツ寺遺跡である。


三ツ寺遺跡は昭和56年(1981年)の発掘調査で発見され、その規模の大きさや石積み、館全体の形が注目を集めた。敷地は一辺が86メートルの正方形で、その周囲が堀で囲まれている。この構造は中世の館城の基本形で、戦国時代に至るまで権力者の居館の基本構造だった。御城プロジェクトに登場する城でいえば、例えば一乗谷城の麓に築かれた朝倉氏館が伝統を引き継ぐものといえる。
居館の内部は溝や柵で区画され、居住・祭祀・倉庫・工房などの各機能があった。三ツ寺遺跡は南半分に政治・祭祀空間、北半分に工房群があったと考えられている。


三ツ寺遺跡の防御施設には、大きく分けて四つの特徴がある。
一つ目は堀が非常に広いこと。川の水を取り入れた堀は豊かに水をたたえ、広い部分では約40メートルの幅がある。
二つ目は石積が使用されていること。後世の城の石垣とは工法が異なり葺石と呼ばれるもので、土を固めて造った斜面の上に、河原でとれる丸い石を張り付けて造られている。このような葺石は巨大古墳の多くでも用いられており、古墳の築造技術が古代豪族の居館築造にも応用されたといえる。
三つ目は館の周囲に三重の柵列が巡らされていたこと。中央に大きな柵列が塀で、その前面の柵列が柵、後ろの柵列は柴垣のようなものと考えられている。より広く解釈すれば、後世に大坂城で造られたような二重構造の塀と同様のものと捉えることもできる。
いずれにしても厳重な防御で、このような多重の柵列は福島県いわき市の菅俣遺跡でも発見されている。
四つ目は敵に側面攻撃を行う横矢掛け構造。また馬出状の空間があることも注目される。馬出とは出入り口の前を覆うように設けられる小さな曲輪で、それによって出入り口を二重にし、出撃の際に兵の態勢を整える場所にもなる。
三ツ寺遺跡で見つかった大きな張り出しは、この馬出にあたるものと考えられる。横矢掛けや馬出は主に戦国時代に発達した縄張技術だが、古代に同様のものが用いられていることが注目されている。


古墳時代の豪族居館では囲形埴輪という特異な埴輪がある。L字の平面形で一端に小さな入り口が設けられ、上端には鋸歯状突起がめぐる。かつては防柵の埴輪だとされたが、出土数が増えた現在では豪族居館あるいは浄水の祭祀場を表現した埴輪だとわかった。囲形埴輪のなかに導水施設と覆屋が入った埴輪も見つかっている。
三ツ寺遺跡の場合は祭政の中心的施設である大型建物の横に、石敷きの水の祭祀場が設けられている。豪族居館内に水の祭祀場まで取り込む構造は三ツ寺遺跡特有のものだが、尽きることなく湧き出る井泉の水の生命力や永遠性を王権繁栄の源泉と考える古墳時代の首長の性格をよく物語っている。


かつてはこのような古墳時代の館のことはほとんどわかっていなかったが、三ツ寺遺跡の発見がきっかけとなって研究が進み、各地で発掘調査が行われるようになった。
その結果三ツ寺遺跡のような古墳時代の豪族居館も少しずつ発見されつつあり、北は岩手県から南は熊本県にいたる全国各地で約100ヶ所の豪族居館が見つかっている。

所在地群馬県高崎市三ツ寺町
現存状態現在は新幹線の高架下に埋め戻され、遺構自体を見ることはできない
城郭構造古代豪族居館

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