ヴィルヘルムスヘーエ城 のバックアップソース(No.1)
標高550mの丘の中腹280m地点にある、[[ノイシュヴァンシュタイン城]]のような中世懐古主義の潮流の中で建てられた城である。
城名はドイツ語でWilhelm(ヴィルヘルム)s(の)、höhe(ヘーエ/高み)で「ヴィルヘルムを揚げる」という意味。
最初は12世紀頃修道院があったが、16世紀にルターの宗教改革後ヘッセン=カッセル方伯の手に渡り狩猟小屋が建てられた。
1606年、建築に造詣が深い当主モーリッツは狩猟城を建築したが、いたって普通の領地の1つであった。
1696年ヘッセン家中興の名君、ひ孫のカールは山の頂上にヘラクレス像とカスケードを作り、更に城も建てようとしたが資金不足でできなかった。
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カールの孫でヴィルヘルム9世の父フリードリヒ2世は、1775年アメリカ独立戦争時イギリス軍に傭兵18000人以上を送り莫大な利益を上げ、ヨーロッパでも最大級と云われる程の資産を得た。
なお、宮廷御用商のロスチャイルド家は資産管理を任せられ、これを元手に投資を行い利益を上げ世界最大財閥の基礎を築いた。
この資産のもと、1786年ヴィルヘルム9世ヘッセン=カッセル方伯はヘッセンの歴史的地位を示すため大々的な造営を行う事とした。
モーリッツが建てた狩猟城を壊し、様式は当時流行していたゴシック建築の復興運動(ゴシックリバイバル)に則っとり、1786年~1798年かけて築城された。
水道橋や滝の造成、ヘッセン家の紋章に因んで名付けられた[[レーヴェンブルク城]]の築城も行い1801年終了した。
1803年には選帝侯に選ばれ、当に絶頂期であった。だが好事魔多し。
1806年、ナポレオン戦争ではプロイセン王国を支援したためヘッセン選帝侯領は没収され、
ナポレオンの末弟ジェローム・ボナパルトが治めるヴェストファーレン王国に併合、ヴィルヘルムスヘーエはナポレオンスヘーエと改名された。
1811年から一時期国王の居城となったが、1813年、ナポレオンがロシアで大敗すると王国は解体されヴィルヘルム1世の手に戻った。
だが、1866年の普墺戦争でオーストリアに参戦し敗北すると、ヘッセン選帝侯領はプロイセンに併合され、城も没収されてしまう。
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1870年ナポレオンの甥ナポレオン3世は普仏戦争で敗北し捕虜となった際、ヴィルヘルムスヘーエに収容され過ごしている。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は皇帝就任の翌年1891年から1918年の退位まで、夏の離宮として利用した。これは城名の「ヴィルヘルムを揚げる」が気に入ったと云われている。
1943年第二次世界大戦でイギリスの空爆を受け、主郭部分の殆どが吹飛ぶ大打撃を受けた。1968年から1974年にかけて修復が行われ現在は美術館となっている。
丘の頂上から流れる流水、カスケードは[[ペテルゴフ宮殿]]より遥かに長大で、最後の吹揚水はヨーロッパ最大を誇る。
2013年、『ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ』として世界遺産の一部に登録された。

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|所在地|ドイツ ヘッセン州 カッセル|
|現存状態|一部復元|
|城郭構造|連郭式平山|

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