ヴィシェフラット城 のバックアップ差分(No.2)

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[[プラハ城]]からヴルタヴァ(モルダウ)川を挟んだ対岸の、ボヘミア公国初代王女リブシェから始まるプシェミスル家発祥の地という伝説の丘にある城である。ヴィシェフラドとも。
始まりは1070年、ボヘミア王ヴラチスラフ2世が弟や司教との権力闘争の対抗策のためプラハ城から移り居城とした。
内憂外患に苦しみながらも、現存する聖マルティン聖堂や聖ペテロ・パウロ教会を建造し、プラハに匹敵するほどの街並みを作り上げ大いに賑わった。
だが、孫のヴラジスラフ2世がボヘミア公になるとプラハへ居城を戻したため地位は低下するも、教会や残った市民の努力で独自の地位を維持し続け、
ルクセンブルク家のヨハンがボヘミア王につく際には大きな後ろ盾となった。
1346年、ボヘミア王かつ神聖ローマ皇帝になった息子のカール4世は、母がプシェミスル家出身だったこともありヴィシェフラットとプラハを尊重し、
1348年からプラハ市街を拡張し市壁をヴィシェフラットまで繋げ、城も拡張し新たに城塔も作り教会の修復も行った。
また、チェコの始まりをヴィシェフラットとし、戴冠式の前日の儀式をヴィシェフラットで行うようにした。

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1420年、平和だったボヘミアを舞台にフス戦争が始まる。これはボヘミア出身でキリスト教フス派の教祖ヤン・フスがカール4世の息子神聖ローマ皇帝ジギスムントによって火あぶりにされたが、
そのジギスムントがボヘミア王につくと、不満を持ったフス派が市長や議員を窓から突き落とし殺害し叛乱を起こした。これが第1次プラハ窓外投擲事件である。
ヴィシェフラット城も戦いの舞台となった。守るは皇帝軍ヤン・フシェムベラ以下400名、攻めるはフス派の農民兵リーダー、ヤン・ジシュカであった。
皇帝軍は2ヶ月以上籠城していたが、兵糧が不足し餓死者が出始めていた。そこへ皇帝が援軍にやって来て城内の部隊と連絡を取ろうとしたが上手くいかなかった。
業を煮やし強引に攻め寄せたが、フス派の新型兵器ピーシュチャラ(初期のハンドキャノンでピストルの語源となった)に苦戦し沼池に追い詰められ500名の騎士が討たれた。
当時の騎士の戦いは無闇に命を取るような事はせず、また捕虜になっても大して不名誉ではなく身代金を払えば解放されていた。
それは結構な額で騎士の名誉を傷つけないように扱えば、農民が1年優に暮らせる程であった。
だが、フス派のピーシュチャラは騎士の降伏を一切認めずに虐殺し、さらに死体の身ぐるみを剥ぎ裸で戦場に放置するという騎士の名誉を投げ捨てる行為をやってのけた。
農民が騎士に討ち勝つ行為は中世戦争の大きな転換点であり、それが初めて行われたのがフス戦争における「ヴィシェフラットの戦い」であった。
結局皇帝軍は兵糧不足のため開城し、城は徹底的に破壊された。次代ボヘミア王アルブレヒト2世の時にフス派と和解が行われたが、城は再建されることはなかった。

1618年にはマティアス王がフス派からの流れを組むプロテスタントを認めなかったことにより、第2次プラハ窓外投擲事件からボヘミアの反乱が起こった。この騒動は数年で終わったが、
これをきっかけに三十年戦争の火蓋が切って落とされ、プラハは戦争の舞台となり、1630・31・48年など度々攻撃され人口が1/3まで減少し荒廃することとなる。
1648年、フェルディナント3世の時、三十年戦争は終結するが王宮は[[ウィーン]]に移されてしまい、それはプラハと神聖ローマ帝国の斜陽と言えるものであった。
何とかプラハを強化・復興させようと、1650年、ヴィシェフラットの地に新たに大砲時代に即したバロック式の要塞が築かれた。現在も残る主要部分はこの時代に建てられたものである。
しかし、プラハ大火や悪疫が度々発生し思うように復興せず「暗黒の時代」と呼ばれるほどで、歴史の表舞台に立つことは無く、1744年の第二次シュレージエン戦争時には2週間の攻囲で開城するなど、
戦力の低下は明らかだった。要塞も殆ど使われることなく、1866年解体され訓練場となった。
しかし、プラハ大火や悪疫が度々発生し思うように復興せず「暗黒の時代」と呼ばれるほどで、歴史の表舞台に立つことは無く、1744年の第二次シュレージエン戦争時には2週間の攻囲で開城するなど、戦力の低下は明らかだった。要塞も殆ど使われることなく、1866年解体され訓練場となった。
独立を保っていたヴィシェフラットだったが1883年、プラハに統合され市街の一部となり、1911年、訓練場が軍から払い下げられプラハ市に委譲された。
1968年から始まった民族変革運動いわゆる「プラハの春」により歴史見直しが行われ、ヴィシェフラット城も注目され公園として整備された。
1992年、城跡が世界遺産「プラハ歴史地区」の一部に認定された。また2014年には950~1050年の間に建造された古ロマネスク様式跡が発掘され、プラハ発祥の根拠ではないかとの説がある。

なお、スメタナの交響詩『わが祖国』の第1曲に「ヴィシェフラド」があるが、日本では第2曲の「モルダウ」の方が有名である。
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Bohacova Ivana・Frolik Jan・Smetanka Zdenek・Nechvatal Borivoj・Hrdlicka Ladislav『Prague Castle, Vy?ehrad Castle and the Prague Agglomeration 』
(編)Jan Fridrich (収録)『25 Years of Archaeological Research in Bohemia』P153~164 Prague Institute of Archaeology 1994年
Bohacova Ivana・Frolik Jan・Smetanka Zdenek・Nechvatal Borivoj・Hrdlicka Ladislav『Prague Castle, Vyšehrad Castle and the Prague Agglomeration』(編)Jan Fridrich (収録)『25 Years of Archaeological Research in Bohemia』P153~164 Prague Institute of Archaeology 1994年
菊池 良生 『神聖ローマ帝国』 講談社 2003年
薩摩 秀登 『物語チェコの歴史―森と高原と古城の国』 中央公論新社 2006年
(著)Michael Howard (訳)奥村 房夫・奥村 大作 『ヨーロッパ史における戦争』 中央公論新社 2010年
(著)Alois Jirasek (訳)浦井 康男『チェコの伝説と歴史』  北海道大学出版会 2011年
片野 優・須貝 典子 『図説 プラハ 塔と黄金と革命の都市』 河出書房新社 2011年
岩崎 周一 『ハプスブルク帝国』 講談社 2017年
(編)Boháčová, Ivana・Jaroslav Podliska 『Průvodce pražskou archeologií』Archeologicky ustav AVČR,  2017年
加藤雅彦  『図説 ハプスブルク帝国』 河出書房新社 2018年
ヴィシェフラット公式サイト
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|所在地|チェコ、プラハ市、ヴィシェフラット|
|現存状態|門、城壁|
|城郭構造|平山城|

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