ロードス のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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ヨーロッパ・西アジア・アフリカをつなぐ地中海交易の要衝であるロードス島に紀元前5世紀末に建設された都市で、それまでにロードス島の中心都市だった[[リンドス>リンドス・アクロポリス]]に代わってロードス島における中心都市となった。
その後ロードス島はデロス同盟やアケメネス朝、アレクサンドロス帝国、ローマ帝国、東ローマ帝国など様々な勢力の支配下に置かれたが、1291年のアッコン陥落により聖地を追われた聖ヨハネ騎士団が、1309年に東ローマ帝国からロードスを奪って本拠地とした。
聖ヨハネ騎士団は東ローマ帝国が使っていた城塞を修築し、[[コンスタンティノープル]]の外城壁と同様の城壁も増築した。この時に形成された城塞都市が中世都市としてのロードスの範囲となる。
こうしてロードスは聖ヨハネ騎士団の本拠地であるとともに対イスラームの拠点にもなり、特に1453年にコンスタンティノープルが陥落して以降は対オスマン帝国の最前線となる。

1291年のアッコン陥落により聖ヨハネ騎士団は聖地を追われ、1309年に東ローマ帝国からロードスを奪って本拠地とした。
聖ヨハネ騎士団は東ローマ帝国が使っていた城塞を修築し、[[コンスタンティノープル]]の外城壁と同様の城壁も増築した。
ロードスは対イスラームの拠点、特に1453年にコンスタンティノープルが陥落して以降は対オスマン帝国の最前線となる。
1440・1442・1444年のマムルーク朝による攻撃は騎士団長ラスティックが撃退し、1455年のオスマン帝国による攻撃も騎士団長ジャン・ド・ミイーが撃退した。
オスマン帝国は1480年にロードスに対する本格的な攻撃に乗り出したが、聖ヨハネ騎士団は団長ピエール・ドービュソン指揮の下でよく防戦し、オスマン帝国軍の最新式の攻城兵器に対し中世の城塞によって撃退することに成功した。

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地中海交易の掌握・航路の安全を図るイスラーム勢力はたびたびロードスを攻撃したが、1440・1442・1444年のマムルーク朝による攻撃は騎士団長ラスティックが撃退し、1455年のオスマン帝国による攻撃も騎士団長ジャン・ド・ミイーが撃退した。
「征服者」と称されたオスマン帝国のスルタン・メフメト2世はペロポネソス半島やバルカン半島各地を征服した後の1480年、ロードスに対する本格的な攻撃に乗り出したが、聖ヨハネ騎士団は団長ピエール・ドービュソン指揮の下でよく防戦し、オスマン帝国軍の最新式の攻城兵器に対し中世の城塞によって撃退することに成功した。
この攻囲戦の後ロードスの城塞は近代化が施され、ルネサンスの築城技術を導入した強固な城壁が増築され、側射や縦射を行うための稜堡の初期形態が登場した。
そして1522年、ロードスはオスマン帝国の最盛期を築くことになるスレイマン1世率いる大軍の攻撃を受ける。
聖ヨハネ騎士団は団長ヴィリエ・ド・リラダンを中心に防戦し、近代化された城壁に対しオスマン帝国軍は大きな損害を与えられず、逆に城塞からの反撃を受け多くの兵を失っていった。
しかしコンスタンティノープルの陥落時と同じく、ロードスも兵員不足から城塞の全てを守ることができず、城壁を突破されると抵抗する術を失い、ついにオスマン帝国に降伏することとなった。

聖ヨハネ騎士団が退去した後のロードス島はオスマン帝国が支配することとなり、その治世下でも聖ヨハネ騎士団時代の建築物は保存された。20世紀にもそれらの建築物は修復されており、現存する中世城塞都市の建築物群としてはヨーロッパ最大級のものとなっている。
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|所在地|ギリシャ・南エーゲ地方ロードス島ロードス|
|現存状態|世界文化遺産・ロドスの中世都市|
|城郭構造|城郭都市|

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