ルズラン城 のバックアップ差分(No.3)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) ウェールズ北部、アイリッシュ海に注ぐクルイド川を河口から5キロメートルほど遡った町ルズランの河岸にある城。 地名はルドランとも発音する。[[アイアンリング>日本100名城#b2a2238d]]のうち最初の城であり、ウェールズ侵攻の間にはエドワード1世の宮廷としても使われた。 イングランドがウェールズを支配下に置いたことが確定したルズラン法令(ルズラン勅令とも)が発布された城である。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 8世紀末にマーシア王国とウェールズ勢がルズラン近辺で戦火を交えたという言い伝えが残るが定かではない。 11世紀後半にはノルマン人が侵入しノルマン人領主によってモットアンドベイリー方式の城が置かれた。これは現在地よりも南東側で今もモットが残っている。 現在の城はエドワード1世がウェールズ侵攻に際して1277年から建設を始めた城で、エドワードとマスター・ジェイムズが手がけた最初のアイアンリングであった。 ほぼ同時期にフリント城の築城も開始(1284年完成)されているが、そちらよりも一足早く1282年に完成した。 ほぼ同時期に[[フリント城]]の築城も開始(1284年完成)されているが、そちらよりも一足早く1282年に完成した。 ウェールズ侵攻の拠点として、築城と同時にクルイド川も改修し、城の船着場まで物資を積んだ船が直接川を航行できるようにした。 また軍事的な拠点であるだけでなく王の居城としても考慮されており、王妃のために池付きの庭が設けられていたと伝わる。 なお、完成直後のルズラン城内においてエドワード1世の八女エリザベスが誕生している。 #br 最後のウェールズ大公スリウェリン(ルウェリン)とその弟ダフィズが処刑された後の1284年、ルズラン城において『ルズラン法令』が発布される。 これはウェールズ((正確にはこのときまでイングランドに服属していなかった北部ウェールズ))にイングランドの法および行政区分を適用することを宣言するもので、これによってウェールズの政治的独立性は完全に失われた。 1294年にはマドック・アプ・ルウェリンの反乱、1400年にはオワイン・グリンドールの反乱と何度も攻撃を受けるが一度も落城しなかった。 しかし1646年のイングランド内戦においては議会派軍の攻撃を受けて落城し、その後破却されて廃城となった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ウェールズ、デンビーシャー、ルズラン| |現存状態|城壁、城塔| |城郭構造|集中様式| #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)}; }}} #style(class=submenu){{{ **城郭構造 [#t1122497] ひし形に近い台形の主郭を持つ、[[ビューマリス城]]などと似た構成の集中様式の城。 それぞれ二本の塔を持つ城門塔が川に面した西側とその逆側にあり、南北の角にもそれぞれ塔を持つ。 城地はクルイド川に直接接し、クルイド川から引き入れた幅10メートルほどの水濠で残る三方を囲む。現在は水が抜かれて空堀となっている。 この濠に接して外城壁と防御塔があったが現在はほとんど残っていない。南西角に一つだけ塔が残っている。 主郭の北西面に基礎が残っていることからここに居住スペースとなる城館があったことが伺える。 }}} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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