マリエンベルク城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]
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[[コーブルク城]]と[[ハイデルベルク城]]の中間に位置する、標高260mの丘の上に建てられた城である。マリエンブルク城は[[こちら>マルボルク城]]を
紀元前からケルト人の環濠集落があり、6世紀にはフランク族の城砦が築かれ、704年の文書に『(フランケン大公)ヘデン2世のヴィルテブルク城砦』とある。
マリエンベルクとなったのは、この地で689年に殉教した聖キリアンを記念して建てられたマリエン(聖母マリア)教会が由来。ちなみにベルク((berg))は城((ブルク/burg))ではなく山。
このキリアンの死によって有名となったヴュルツブルクはカトリックの活動拠点となり、1030年ヴュルツブルク司教が管理する司教都市となった。
ただ城は1157年ヘンネベルク家の一族が司教になると、皇帝とも親しかった事もありヘンネベルク家に城伯((管理と軍事指揮))の地位が与えられた。

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1201年、コンラート1世司教はオットー4世((のちの神聖ローマ帝国皇帝))とフィリップ((ドイツ王))の対立に備え、40mのキープを建て井戸が掘られた。
ヘルマン1世司教はドイツ王のハインリヒ7世と親密で、1232年ハインリヒが父フリードリヒ2世皇帝と対立した時、ハインリヒを支持したため一時領地に不穏な空気が流れた。
またフリードリヒ2世は過去に破門され、ハインリヒの後に皇帝となった弟のコンラート4世も教皇と不仲で破門されるなど親子揃って教皇側と仲が悪かった。
戦争の気配があったので、1253年城伯のヘンネベルク家の衰退もありヴルツブルク大聖堂から城へと居住が移され、1354年ヘンネベルク家から城伯の地位を買い取り名実ともに司教城となった。
15世紀後半、財政改善に成功したルドルフ2世フォンシェーレンベルク司教の改革により改築が行われ、周囲1.5km・2重の城壁に囲まれた城となった。また城の正門のシェーレンベルク門は彼の名に因んでいる。
この改築は城下町に住む市民が力を持ち、司教領から帝国自由都市((皇帝直属の街))を求めるようになってきたので、それを威圧する目的も多分に含まれている。
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司教側と市との対立はついに1525年ドイツ農民戦争にて火蓋が切られた。
各地から集まった8000~15000人とも言われる市民たちが城兵400、戦える兵は半分程度のマリエンベルク城に攻撃を仕掛けてきた。
何故こんなに守兵が少数かというと、この時代基本戦いは傭兵に任せきりで貴族は指揮を執るだけで良かった。そしてその傭兵たちの大多数は市民側に付いてしまったのであった。
市民たちは火器を殆ど持たず、大砲もあったが貧弱だったので梯子や鍵縄を使い古来さながらの方法で外城壁を突破し、外城門を開けると大勢の市民が中庭に殺到。
正門のシェーレンベルク門に手を掛けようとした時、銃声が響いた。
これを機に内城壁に隠れていた兵が一斉に砲声を浴びせた。城壁に身を寄せ逃れようとした市民には石が降り注いだ。
市民はパニックになり外城門から逃げようとしたが、さらに矢弾が浴びせられ、押し合い圧し合いで圧死する者、転んで踏みつぶされる等凄惨な光景となった。
市民側の死者は800を越え、20倍以上の兵力差を覆す大勝利を得た。
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1572年火災が発生したのでユリウス司教はルネサンス式で復興した。この時図書館も被害にあったので新たな製本技術で3000冊が復刊された。
ところがこの司教が一番の曲者だった。ドイツ農民戦争で被害に遭った村々を復興という目的で司教領に組み込んでいたが、プロテスタント教の地域も含まれていた。
カトリック教領に併合される事を拒んだ住民を次々と異端という名目で裁判にかけ火炙りに処した。ヴュルツブルク魔女裁判の始まりである。
フィリップ司教の時に最盛期を迎え、戦乱の足音が聞こえているにも拘らず裁判を続け900人以上が死刑となり、累計1500人以上が処刑された。
フィリップの死から3ヶ月後、30年戦争のスウェーデン戦争にてスウェーデン軍が占領、次代の司教が城に戻るまで3年かかった。
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傷ついた城はバロック式で改築が行われ、稜堡・深さ102mの井戸・12kmの城壁・城壁に連なる円塔が加えられた。
ヴュルツブルク領は最盛期を迎え芸術・文化と花開いたが、1720年[[ヴェルサイユ宮殿]]に憧れたヨハン司教は平和の象徴として新たな宮殿の築城が開始され、1729年城から居を移し新たな居城となりマリエンベルク城は要塞となった。
最盛期があれば終わりもある。フランス革命から始まったフランス革命戦争により、1796年フランス軍に占領されるがカール大公((神聖ローマ帝国最後の皇帝の弟))によって解放され城に1000人の捕虜が収監された。
だが戦争自体は神聖ローマ帝国の敗北に終わり、1802年世俗化されバイエルン選帝侯領→バイエルン王国→フランス保護下のヴュルツブルク大公国→バイエルン王国と大国に振り回されながら目まぐるしく推移した。
1866年プロイセン=オーストリア戦争では、プロイセン軍から砲撃を受けたが終戦まで持ちこたえた。そしてこれが要塞としての最後の戦いであった。
なおこの時のバイエルン王は[[ルートヴィヒ2世>ノイシュヴァンシュタイン城]]で、この戦争で支払われた多額の賠償金のせいで君主の座を追われる原因の1つでもある。
第一次世界大戦後バイエルン王国が解体されると兵舎や留置所となったが、1935年バイエルン州管理となり1939年まで修復が行われた。
しかし1945年イギリス軍の空爆に曝され、ほぼ完全に焼失し再建は1990年までかかった。現在も州が管理しており博物館となっている。
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|所在地|ドイツ、バイエルン州、ウンターフランケン行政管区、ヴュルツブルク|
|現存状態|再建|
|城郭構造|ルネサンス式平山城|

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