ポンテフラクト城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報リンカーンとヨークを結ぶ街道沿いの町ポンテフラクトに築かれた城。サクソン時代の城砦の跡地に建てられた。 ポンテクラフトの名前はラテン語で『橋が落とされた場所』の意味で、征服王ウィリアム1世に反撃したアングロサクソン勢がこの町の橋を落として抵抗の意志を示したことからついたもの。 ポンテフラクトの名前はラテン語で『橋が落とされた場所』の意味で、征服王ウィリアム1世に反撃したアングロサクソン勢がこの町の橋を落として抵抗の意志を示したことからついたもの。 続きをクリックで表示 ウィリアム征服王により領主に任じられたイルバート・ド・レイシーによって1070年前後にモットアンドベイリー式の城が築かれたのが始まり。 トマスは従兄弟エドワード2世の寵臣政治に反対し続け、一時は実権を奪ったが形勢が逆転、バラブリッジの戦いに破れ、この城で処刑された。 トマスは従兄弟エドワード2世の寵臣政治に反対し続け、一時は実権を奪ったが形勢が逆転。バラブリッジの戦いに破れてこの城で処刑された。 トマスはエドワード2世を退位させた後このポンテフラクト城に幽閉しようとしていたといわれ、そのための部屋も作ってあったが、彼が処刑されたのはまさにその部屋であったという。 その後もランカスター家の持ち城の一つとなって強化され、ランカスター家から出たヘンリー4世が王位についたことで王室の城となる。 ヘンリー4世に王位から追われたリチャード2世は各地の城を転々とさせられ、1400年にポンテクラフト城で没した。このリチャード2世の死には他殺、餓死、自殺の各説がある。シェイクスピアの『リチャード二世』ではヘンリー4世の騎士エクストン卿によって殺害されたことにしているが確証はない。 ヘンリー4世に王位から追われたリチャード2世は各地の城を転々とさせられ、1400年にポンテフラクト城で没した。このリチャード2世の死には他殺、餓死、自殺の各説がある。シェイクスピアの『リチャード二世』ではヘンリー4世の騎士エクストン卿によって殺害されたことにしているが確証はない。 薔薇戦争では牢獄として使われ、エドワード5世の母方の伯父リヴァーズ伯アンソニーをはじめとするランカスター派貴族が処刑された。 王家の城だった為、17世紀のイングランド内戦では当然王党派の拠点として使われ、内戦中を通じて議会派軍に三度包囲された。 第一次包囲戦はヨークが開城した後1644年の末から1645年の3月まで続いた。議会派軍はチェカーフィールドの戦いに敗れて一旦撤退する。 第一次包囲戦はヨークが開城した後1644年の末から1645年の3月まで続いた。3月、議会派軍はチェカーフィールドの戦いに敗れて一旦撤退する。 しかし体勢を立て直すと3月末に早くも再度城を包囲する。この第二次包囲戦は4ヶ月続いたが最終的に守備隊の降伏で幕を閉じた。 その後1648年に王党派が城を急襲し占拠。8月から始まった三度目の包囲戦には議会軍の主将クロムウェルが自ら軍を率いて包囲に加わった*1。 このときの戦いでクロムウェル自身がこの城について「尋常ではない頑丈さ」「イングランド有数の要害」と評した。 籠城中の1649年1月に国王チャールズ1世が処刑されるが、守備隊は息子チャールズ2世を次期国王と宣言して籠城を続け、城内ではチャールズ2世の名を刻印した貨幣を鋳造していた。 とはいえ孤立無援の篭城戦では最終的な結果は見えており、1649年3月についに落城。城は徹底的に破却され、一部の城壁が残るだけとなった。
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