ホーエンシュタウフェン城 のバックアップの現在との差分(No.1)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

ドイツ人に最も親しまれる中世の英君フリードリヒ1世バルバロッサ、世襲帝国計画・地中海帝国復活を進めたハインリヒ6世、「玉座に座った最初の近代人」フリードリヒ2世など、神聖ローマ帝国史上でも傑出した皇帝を輩出したホーエンシュタウフェン家発祥の城。
ホーエンシュタウフェン家の家祖はビューレン伯フリードリヒで、その子フリードリヒが1070年頃にシュタウフェン城を築いたのが家名の由来となり、当初はシュタウフェン家と名乗った。フリードリヒは1079年にシュヴァーベン大公フリードリヒ1世となり、シュタウフェン家はヴェルフェン家と並ぶ神聖ローマ帝国の二大家門へと成長することになる。
フリードリヒ1世は叙任権闘争で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が争った際にはハインリヒ4世を支持し、その功で1098年に正式にシュヴァーベン大公に任じられた。
その子フリードリヒ2世独眼公はシュヴァーベン大公位を継承し、皇帝ハインリヒ5世が男子を残さず死去したため、実質的な帝都であった[[ニュルンベルク>ニュルンベルク城]]を含む遺領を相続した。フリードリヒ独眼公は新国王の最有力候補となったが、強大な国王の出現を嫌う諸侯によって、ザクセン公ロタールが国王に選出された。
その子フリードリヒ2世独眼公はシュヴァーベン大公位を継承し、皇帝ハインリヒ5世が男子を残さず死去したため、実質的な帝都であった[[ニュルンベルク>城塞都市ニュールンベルク]]を含む遺領を相続した。フリードリヒ独眼公は新国王の最有力候補となったが、強大な国王の出現を嫌う諸侯によって、ザクセン公ロタールが国王に選出された。
ロタールの死後に王位はシュタウフェン家のものとなり、フリードリヒ独眼公の弟コンラートがドイツ王コンラート3世として即位した。そしてコンラート3世の死後、フリードリヒ独眼公の子フリードリヒが皇帝フリードリヒ1世として即位し、バルバロッサと呼ばれたこの英雄の下でシュタウフェン家の皇帝権が絶頂期を迎えることとなる。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

こうして神聖ローマ帝国最大の家門となったシュタウフェン家は、本拠地シュヴァーベンの他にドイツ王の伝統的な支配領域も受け継いだため、シュタウフェン城に常在していたわけではなかった。
確認できる範囲では1181年にフリードリヒ・バルバロッサがシュタウフェン城に滞在し、その子でドイツ王となったフィリップの妃イレーネーがシュタウフェン城で亡くなっている。
シュタウフェン家はフリードリヒ・バルバロッサの子ハインリヒ6世の急死後、ヴェルフェン家のオットー4世に一時帝位が渡ったが、ハインリヒ6世の子フリードリヒ2世の代で再び帝位についた。
しかしフリードリヒ2世の子コンラート4世が急死して神聖ローマ帝国は大空位時代となり、その子コンラーディンや弟マンフレーディがシャルル・ダンジューに討たれ、フリードリヒ2世の庶子エンツォも後継者ができないまま死去したため、シュタウフェン家の男系は断絶した。
#br
シュタウフェン城は1288年にハプスブルク家のドイツ王ルドルフ1世の所有となり、帝国にとって象徴的・戦略的に重要な存在となった。そのためヴュルテンベルク伯との間で争奪戦が繰り広げられ、1372年にシュタウフェン城はヴュルテンベルク伯の手に渡った。
この14世紀の間に、他の「シュタウフェン」と区別するため「ホーエンシュタウフェン」と呼ばれるようになり、以後家名を「ホーエンシュタウフェン家」、城名は「ホーエンシュタウフェン城」と称されるようになる。
1519年、ヴュルテンベルク公はシュヴァーベン同盟によってホーエンシュタウフェン城から追放され、ゲオルク・シュタウファーがホーエンシュタウフェン家の子孫としてホーエンシュタウフェン城の所有権を主張した。
しかしシュヴァーベン地方の農民反乱から始まったドイツ農民戦争中の1525年、ホーエンシュタウフェン城は農民軍に攻撃され、徹底的に破壊された。その後1560年にはヴュルテンベルク公クリストフが廃墟となったホーエンシュタウフェン城をさらに取り壊し、その石をゲッピンゲンへと運んでいる。
その後もホーエンシュタウフェン城は放置され、1736年にヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーが城跡に新たな要塞を築く計画を立て、わずかに残っていた中世の遺構も取り除かれた。
1938年になってゲッピンゲンのオーバーホーフェン教会堂で1470年頃のものとされる壁画が修復され、当時のホーエンシュタウフェン城の姿が知られるようになった。また1936~1938にかけて行われた発掘調査によって、城壁の一部も発見されている。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ゲッピンゲン|
|現存状態|廃墟|
|城郭構造|山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)




ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS