プレッドヤマ城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]
比高差約120m、絶壁の中腹にある洞窟の入り口に建てられた城である。プレジャマ城・洞窟城とも。
語源はスロベニア語でPred(プレッド/前)、jama(ヤマ/洞窟)で「洞窟の前」である。プレジャマはこれの英語読み。
始まりは11世紀イタリアの北部アクイレイア総主国によってゴシック様式で築城された。
アクイレイア総主国は元アクイレイア大司教領で聖界諸侯の1つであったが、世俗化されると辺境伯となり領地の拡大に勤しんだ。
この城も、そんな拡大のなか築かれた城の1つである。城はカルニオラ地方のルエッグ地域に根差す家臣のルエッグ家に支配を任せていたので、1202年の初名はルエッグ城とある。
だが1272年ボヘミア王オタカル2世の侵攻により占領され、オタカル2世敗死後、戦争で功績のあったゲルツ家に与えられた。
ゲルツ家のハインリヒ6世はボヘミア王に選出されたが無嗣断絶してしまったので、親族同士で争いが起き1335年ハプスブルク家の物となった。

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1478年ルエッグ家のエラゼムが城を手に入れた。
伝説では、1483年友人の名誉を傷つけた神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家のフリードリヒ3世の従弟で将軍でもあった、マーシャル・パッペンハイムを殺害したので城に逃れた。
これに憤慨した皇帝はイタリアのトリエステ軍を差し向け攻撃に当たらせた。
しかし3方を崖に囲まれ城への道も狭く難路で、大砲での攻撃も殆ど効果が無かったので、仕方なしに包囲し兵糧攻めに切り替えたが、一向に降伏する気配が見えなかった。
ある時攻城兵が兵糧が欠乏していると思い軍糧を見せびらかしたところ、城側から食べかけの牛肉や新鮮な果実が投げ捨てられた。それは攻城側よりも豪華で新鮮な物であった。
これは城と裏の洞窟が繋がっており、さらに洞窟に抜け道があり外に出ることができたので、自由に城へと兵糧を持ち込むことが可能であったのである。
兵糧攻めの効果が無いと知った攻囲軍は調略に切り替え、守備兵側に降伏しても罪に問わないという条件で甘言を行い、内通者を作ることに成功した。
夜エラゼムがトイレに入った時、ろうそくで照らし合図を送った。明かり目掛け大砲が撃たれエラゼムは崩れてきた壁に押し潰され討ち死にしてしまった。
このエラゼムの幽霊が今でも城を彷徨っていると伝わる。またエラゼムが葬られたという地に菩提樹が植えられ、その木が今も現存している。
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なお史実では、エラゼムはトリエステの領主の子に生まれたが、1478年故地ルエッグがハンガリー王マーチャーシュ1世によって攻められると、兵を挙げて協力した。
このマーチャーシュ1世と神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家のフリードリヒ3世との戦闘中に、皇帝の従弟パッペンハイムをエラゼムが討ち取ったのであった。
マーチャーシュ1世は軍功を挙げたエラゼムにプレジャマ城を与えた。
城を手に入れたエラゼムはさらに近隣の皇帝支配下の街や村に攻撃や略奪を仕掛け、「強盗騎士」と呼ばれることとなった。
されど本来の意味は零落し、ただの略奪・強盗に成り下がった騎士の事を「強盗騎士」という。なので戦術での略奪を指して「強盗騎士」と呼ぶのは別物ではないだろうか。
1483年これに手を焼いた皇帝は、トリエステの領主ガスパル・ラブバーに攻撃を命じた。ようは出身地の領主に落とし前をつけさせたのである。
攻城中は兵糧の見せびらかしも含め、上記に記したのと同じである。最後は冬を挟んで1年にも及ぶ籠城の末、裏切った味方に銃で撃たれ殺されてしまった。
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城は破壊され戦功のあったスロバキア貴族でゴルゴニグラードに住むオーバーブルク家に与えられたが、オーストリアの貴族プルクシュタル家に売られ新たな城が築城された。
だが1511年イドリヤ地震で城が崩壊してしまう。この地震はメルカリ震度階級Ⅹの破滅的レベルと推定され死者15000人以上を数え、2020年12月30日に起こったM6.4の地震よりはるかに規模が大きかった。
再建を諦めたプルクシュタル家は君主であるハプスブルク家に城を売り渡し去ってしまった。
再びハプスブルク家に戻ったものの、カール2世内オーストリア大公((現オーストリア下半分・スロベニア・クロアチアの一部))は1567年カルニオラの知事ヨハン・コベンスルに下げ渡した。
ヨハンは男爵に就任したばかりだったので、プレッドヤマ城を居城としルネサンス様式で築城を行い1570年完成した。
ただ不便であったためウィーンに居を移したので、バロックやネオゴシックといった新たに流行った改築から逃れることができ、現存している大部分はこの時代のものである。
コベンスル家は1810年で断絶してしまい2家を経て、第二次世界大戦後スロベニア人民共和国となると没収、国有化され現在も続いている。
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余談としてギネスブックに「世界最大の洞窟城」として認定されている。
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|所在地|スロベニア (カルニオラ ノトランスカ地方) ポストナイ市 プレッドヤマ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|ルネサンス式山城|

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