ブラチスラヴァ城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) スロバキアの首都ブラチスラヴァの旧市街の西側に建つ城。ブラチスラヴァの象徴的な建築物であり、城の隣には国会議事堂もある。 オスマン帝国がブダペストを占領していた16世紀から18世紀にはハンガリー王国の首都にもなった歴史の深い城である。 四隅に塔を持つ四角い主棟の様子から「ひっくり返されたテーブル」と言うあだ名で表現される。 なおブラチスラヴァという名前を名乗るようになったのは1919年以降であるが、ここでは便宜上それ以前でもブラチスラヴァと表記する。ハンガリー王国時代はポジョニという名前であった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ ブラチスラヴァ一帯は数千年前から人間が住んでいた。ドナウ川に面した広い平地という地勢からも人が集まりやすく交易の中継地だった。 その西側、川のほとりの丘上に避難場所兼軍事拠点として築かれたのがブラチスラヴァ城とその前身の城砦とされている。 鉄器時代の後期にはケルト人が、そのケルト人を退けた後にローマ人が、ローマの衰退後にはスラブ人が同様にこの場所を城砦として使った。 8世紀から9世紀初期のブラチスラヴァ城はレンガを使ったローマ要塞の上に木造城壁を築いていたと考えられている。 この時代ブラチスラヴァはスラブ系のモラヴィア王国の中心だった。モラヴィアは9世紀に最盛期を迎えるが、その後東フランク王国とマジャール人に挟撃される形となって一気に没落し、最終的に東フランク王国に服属する。 ちなみにブラチスラヴァという名前はこの時期に活躍した東フランク配下のスラブ人貴族・ブラスラフの城を指す「ブレザラウスプルク」という地名に由来するが、この地名が現在のブラチスラヴァそのものを指していたのかは現在も議論がある。 #br 907年にはマジャール(ハンガリー)大公アールプールが侵攻しブラチスラヴァ(プレスブルク)の戦いが起きる。東フランク軍は指揮官バヴァリア辺境伯ルイトポルトが戦死するなどの大敗を喫して一帯の支配権を失い、ブラチスラヴァは以降ハンガリー王国領ポジョニとなった。 12世紀の後半、おそらく1180年代に石造の城壁を持つ城郭が形成された。この城壁の為に13世紀のモンゴルの侵略に対しても落城しなかった。 前述の地勢もあり、ブラチスラヴァ(ポジョニ)は都が置かれた[[ブダペスト>ブダ城]]に次ぐ政・教・軍事・貿易の重要拠点となる。 必ずしも王権が強くなかったハンガリーでは王位を巡ってたびたび戦いが起こり、ブラチスラヴァはそのたびに戦火に巻き込まれた。 もちろん内戦だけでなく北のボヘミアやドイツ諸侯からの攻撃も受けていたが、外敵に対しては早々と屈することはなかった。 オスマン帝国の脅威が増してきた15世紀にハンガリー王ジグモンド((神聖ローマ皇帝ジギスムント))によって全面的に改築・近代化され、これが現在の城の大元になる。 やがてオスマン帝国とハンガリーの間で1526年モハーチの戦いが起きる。この戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死すると、ブラチスラヴァを含むハンガリー王国の北西部はオーストリア大公フェルディナント1世の支配下に入り「王領ハンガリー」となった。 #br フェルディナントはハンガリー王としてブダペストからブラチスラヴァへの遷都を宣言し、およそ140年間にわたってハンガリーの王都となる。 城の直下にある聖マルティン大聖堂で王の戴冠式が執り行われ、城は王の居城としてルネサンス様式の宮殿に改築された。 が、この時期ハンガリー王は事実上ハプスブルグ家の家長((神聖ローマ皇帝あるいはオーストリア大公または皇帝))の称号の一つであり、当然通常はオーストリアの都[[ウィーン]]に住んでいた。 14世紀以降のブラチスラヴァは城壁と4つの城門を持つ城郭都市でもあったが、城壁は女帝マリア・テレジアの時代に取り壊された。 そのマリア・テレジアはブラチスラヴァ城を愛した一人として知られ、城をバロック様式を多用した宮殿へと改装させた。 ただし、この改装はハンガリーを軽視しないという姿勢を見せる必要から行われたものともされる。実際、マリア・テレジアはブラチスラヴァでハンガリー女王として戴冠し、その後に情に訴える演説と利を説く折衝を通してハンガリーの忠誠を取り付けることに成功していた。オーストリア継承に当たって周辺諸国との間に緊張状態を生んでいた彼女は、自分に対するハンガリーの忠誠を維持する必要があったのである。 #br 1784年にハンガリーの首都機能がブダペストに戻ると、城はカトリックの神学校として使われた。この神学校はのちのスロバキア民族主義・スロバキアの独立運動に大きな影響を残した。 19世紀初頭にはナポレオン戦争の中でフランス軍に占領されるが、1811年駐留フランス軍の失火によって宮殿は炎上してしまう。 炎上の後、城はその後長いこと廃墟と化していた。現在のものは第二次大戦後になってから復元保存が決まり、1950年代から大規模に修繕された。 近年では2008年にも宮殿の改修工事が行われた。城は国立歴史博物館になっているほか、現在も復元プロジェクトが城の各所で進んでいる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|スロバキア、ブラチスラヴァ県、ブラチスラヴァ| |現存状態|現存および復元| |様式|バロック様式宮殿(復元)| |
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