フランドル伯城 のバックアップ差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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ブリュッセルの西約50km、ベルギー第三の都市ヘントに建つ城。ヘントは英・独語読みのゲントまたはフランス語読みでガンとしても知られる。
オランダ語では『グラーフェンステーン』(=伯爵の城)と呼ばれ、日本ではフランドル伯城と訳されることが多い。
フランドル伯家は西フランク王国(のちのフランス)のカロリング家やイングランド王アルフレッドの血を引き、形式的には西フランク王の臣下でありつつ、一方で東フランク王国(のち神聖ローマ帝国)との緩衝地帯として高い独立性を維持した。
のちにはフランドル地方全域を統治し、フランスを含む周辺諸国とも軍事的・経済的に渡り合うようになっていく。
この城はその名の通りフランドル伯の居城として築かれた城で、ベルギーでも有数の歴史を持つ古城である。

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レイエ川とスヘルデ川が合流する「川の合流点」を示すケルト語を語源とするヘントは8世紀にバイキングの襲撃を受ける。
これに対抗するために町を流れるレイエ川のほとりにフランドル伯ボードゥアン1世によって砦が築かれた。これが城の基になる。
10世紀、ボードゥアンの孫にあたるアルヌール1世が砦を強化して城といえる規模に拡大した。この時はまだ木造であった。
更に11世紀にかけてボードゥアン4世と5世の親子の時代に石造の建物と城壁に置き換えられていった。しかし1176年に大火があり、城は甚大なダメージを負ってこの時の建物は破壊されてしまった。
城はフランドル伯フィリップ・ダルザスによって1180年前後に再建される。フィリップは父ティエリーとともに十字軍に従軍しており、新しい城にはシリアで見たイスラム諸勢力の城やその技術を取り入れた十字軍国家の城の技術をふんだんに用いた。
高さ30メートルに達する矩形主城塔を中心に、周囲を胸壁つきの歩廊を持つ城壁と塔で囲み、石落しなどを備えた城門塔で城門を防御する堅固なつくりになっている。

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城は元は町の外側にあったが、町が広がってくるとその中心部に飲み込まれて軍事的な役割は低下し、統治面での役割が目立つようになる。
城は次第に手狭になり、14世紀後半のフランドル伯ルイ2世の時に、後代プリンセンホフと呼ばれるようになる新しい邸宅((この邸宅ではのちに神聖ローマ皇帝カール5世が産まれている))に移った。
その後は裁判所・牢獄に使われたほか緊急時の避難所としても維持されていたが、18世紀には払い下げられ城内に家や紡績工場が作られる。
19世紀半ば頃に解体計画が立てられる。しかし保存運動が起こり1865年に市当局が所有者から買い戻し、その後復元工事が始められた。
新しい建物を撤去し城壁を修復し、1894年に復元工事の第一期が完了。その後も断続的に復元が続けられ往時の姿を取り戻した。現在は博物館となっている。

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|所在地|ベルギー、ヘント|
|現存状態|復元|
|城郭構造|伯城|

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