バークレー城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
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イングランド有数の大河セヴァーン川の下流河口部の東側、ウェールズとの国境を臨む位置にある城。
『英国史上最低の王』と呼ばれた国王エドワード2世が1327年に廃位されたのちに暗殺された城として有名である。
征服王ウィリアム1世のイングランド征服の途上、王の側近ウィリアム・フィッツオズバーンによって1067年頃に築城された。
フィッツオズバーンはイングランド西部に広大な所領を与えられ、周辺の制圧を任せられた。その拠点として築かれた城のひとつがこの城。
彼が同様の経緯で築城した城は多数あり、[[チェプストー城]]や[[モンマス城]]、ワイト島のカリスブルック城などが挙げられる。

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フィッツオズバーンは1071年にカッセル((ドイツのカッセルではなくフランドル地方のカッセル))の戦いで戦死し、城はその家臣だった豪族バークレー卿一族が引き継いで再建した。
しかし無政府時代末期にヘンリー2世に没収され、ヘンリーの支持者だったブリストルの商人ロバート・フィッツハーディングに下賜される。
ヘンリー2世の許可状を得てロバートとその息子のモーリスによって石造化され、モット部分には現在も残るシェルキープが造られた。
モーリスはバークレー家の娘アリスと結婚し姓をバークレーに改め、その後現在に至るまでおよそ900年にわたってその一族が城を保有し続けている。単一の家系によって保持され続けている城としてはイングランドで最古のものとされる。

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1326年にはエドワード2世の寵臣小ディスペンサーによる略奪を受けるが、彼はその後まもなく失脚・処刑される。
エドワード2世も王妃イザベラによって[[ケニルワース城]]に幽閉され、そこで廃位宣告を受けてさらにバークレー城に移されて監禁が続けられた。
エドワードの支持者が身柄の奪還を企てて城に乗り込んだこともあり一時は他の城に移されたが、最終的には再びバークレー城に戻される。
1327年9月、エドワードは王妃の密命を受けた騎士によってバークレー城のキープ内の一室で惨殺され、遺体はグロスター大聖堂に埋葬された。
その後、14世紀後半から15世紀にかけて城門塔や居館が増築された。シェルキープの北側を占めるソープ・タワーはこの時期の建築である。

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著名な私掠船長にして提督フランシス・ドレークは幾度かバークレー城に滞在しており、ゆかりの品が現在も城で収蔵展示されている。
またバークレー家は一貫して王に忠誠を誓っており、何代もの王や女王、王族の訪問(行幸)を受けたことが記録されている。
17世紀のイングランド内戦でもバークレー家は当然のように王党派に付き、そのため議会派のレインズボロー卿の攻撃を受けて降伏した。
城壁と外郭を除去して籠城に耐えなくする代わりに、バークレー家は引き続き城の所有と居住を許された。
この時砲撃によってキープには11メートルに達する亀裂が出来ていたが、この修理も禁じられたため現在でもこの亀裂を見ることができる。
長らくバークレー家の邸宅として用いられてきたが、1997年からはプライベートスペースを除いて一般公開されるようになった。

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|所在地||
|現存状態||
|城郭構造||
|所在地|イングランド、グロスターシャー、バークレー|
|現存状態|現用|
|城郭構造|モットアンドベイリー→囲郭式城郭|
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