ハイデルベルク城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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ドイツ最大・最古の大学街ハイデルベルクの象徴となっている、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)の居城。
ハイデルベルク城に関する最古の伝承は1147年にもので、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの異母弟であるライン宮中伯コンラートが、ネッカー河畔の丘陵中腹部の城砦とそれに付属する小さな村をヴォルムス司教領から入手したのだという。
ハイデルベルクの地名が史料上で初めて登場するのは1196年で、丘陵のハイデルベルク城とその城下の都市ハイデルベルクはライン宮中伯領支配の中心となり、当初は宮廷所在地は定まっていなかったものの、13世紀以降にハイデルベルクに宮廷を置くようになり、ハイデルベルク城はライン宮中伯の居城として次第に改修・増築されていった。
ライン宮中伯位は1214年以降ヴィッテルスバッハ家のものとなり、1356年の金印勅書で選帝侯を得ると、その領邦はプファルツ選帝侯領と称されるようになった。

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15世紀になるとドイツではフス派の動きが活発となり、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世は神聖ローマ皇帝ジギスムントの公会議政策を支持し、コンスタンツ公会議では対立教皇ヨハネス23世をハイデルベルク城に幽閉し、またフスを火刑に追いやる役割を果たした。
1517年に始まったルターによる宗教改革はハイデルベルクにも波及し、ルターはハイデルベルクを訪れてブッファーやブレンツなどの同調者と出会って宗教改革の基盤を固めた。また1556年にはプファルツ選帝侯フリードリヒ2世がルター派に改宗し、選帝侯フリードリヒ3世はカルヴァン派となった。
1618年に始まる三十年戦争はその最初の段階がボヘミア・プファルツ戦争と呼ばれるようにプファルツが主戦場となり、プロテスタント同盟の盟主だったプファルツ選帝侯フリードリヒ5世冬王はボヘミア王に選ばれたものの1620年の白山の戦いで大敗した。
1622年にはカトリック連盟の盟主バイエルン公に仕えるティリー伯がハイデルベルク城を攻撃、占拠しフリードリヒ5世はオランダに亡命した。以後、ハイデルベルク城は一時期スウェーデン軍に占領されたものの、バイエルン公が所持するようになった。
1648年に三十年戦争の講和条約であるヴェストファーレン条約が結ばれるとハイデルベルク城はプファルツ選帝侯に返還され、フリードリヒ5世の子カール・ルートヴィヒ1世が城や選帝侯領の復興に努めた。
しかしカール・ルートヴィヒの娘がフランスのオルレアン公に嫁いだことに端を発する相続問題から、フランス王ルイ14世がプファルツ選帝侯位継承を主張して1688年にプファルツ継承戦争が勃発した。ハイデルベルクはフランス軍の攻撃によって廃墟となり、ハイデルベルク城も破壊された。
戦争後ハイデルベルク城は廃墟のまま放置され、選帝侯領の宮廷がマンハイムに移ったことでハイデルベルクの重要性は失われていった。
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1803年にハイデルベルクはバーデン領となりハイデルベルク城は荒廃したままだったが、フランス人のシャルル・ド・グライムベルクによって城の保存・修復の計画が始まり、20世紀になって修復が行われた。
その後は二度の世界大戦でも被害を受けずに今日に至っており、ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式などの城館建築を見ることができる。
2010年には日本城郭協会によって[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]に選定された。

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|所在地|ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルク|
|現存状態|復元|
|城郭構造|平山城|
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