ノッティンガム城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

イングランド中央部にある交通の要地ノッティンガムの中心地に近い、キャッスルロックと呼ばれる砂岩の丘に建つ城。
征服王ウィリアム1世によって建造され、イングランド内戦まで一貫して王室の城で、一時は政治的な中心地でもあった重要な城。
舟運が盛んだったトレント川を押さえ、またイングランド全体で見てもほぼ中央部にあることから自然と戦略上の重要拠点となった。
ロビンフッドの伝説とも関わりが深い城として知られ、現在の城内にはロビンフッドの像や題材にした絵画も展示されている。
王が滞在することも多く、ノッティンガム周辺の森は王の狩猟園として管理されていた。ロビンフッドが隠れ住んだことで有名なシャーウッドの森もそういった王室林の一つだった。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

ウィリアム1世が中央イングランドを制圧した1067年にモットアンドベイリー式の木造の城が築かれ、ヘンリー2世の時代に石造りに改築された。
ヘンリーの息子の獅子心王リチャード1世が十字軍に遠征していた間、王弟ジョン王子(後のジョン王)の支持者が城を占拠する事件が起きる。
リチャード1世は1194年に十字軍から帰還すると占拠された城を攻めて奪還する。この時十字軍で使った攻城塔と同じ物を導入・建造しわずか数日で攻め落としたという。十字軍に参加した諸将によって攻城/防御の技術が輸入されたことを示す逸話である。

#br
14世紀にはエドワード3世による宮廷クーデターの舞台となる。『英国史上最低の王』とも呼ばれたエドワード2世が廃位され、息子エドワード3世は15歳で即位した。しかし実権は母イザベラ王太后とその愛人で摂政のマーチ伯ロジャー・モーティマーに握られていた。
1330年、成人したエドワード3世は二人から実権を取り戻すためノッティンガム城にいた二人を襲撃して捕え、王太后を幽閉、マーチ伯を処刑した。
伝説によればこの時エドワード勢は城の地下牢に通じる秘密のトンネルを使って二人を奇襲したといい、またトンネルは二人が密会の為に掘らせた物だったとされる。「モーティマーズ・ホール」と呼ばれるこのトンネルには現在も見学ツアーで入ることが出来る。
ただし実際にモーティマーとイザベラが密会の為にこれを掘ったのか、それとも城からの秘密の脱出口として掘られたのかは判然としていない。
王権を掌握したエドワード3世はこの城で議会を開き、また捕虜としたスコットランド王デイヴィッド2世を城の牢に幽閉したこともあった。
エドワードの孫ヘンリー4世の頃には王妃ジョーンの住まいとなり、薔薇戦争の時代にはエドワード4世によって新しく防御塔が追加されるなど代々改修が行われ、のちには砲台も築かれた。

#br
16世紀にはラトランド伯が城代に任命されて代々居住していた。イングランド内戦期にはラトランド伯を始めとする王党派の集結拠点となる。
しかし議会派軍の将ジョン・ハッチソンが隙を突いて占領し、ハッチソン軍は奪還を企てる王党派軍を内戦終了まで撃退し続けた。
終戦後、議会の命令によって一部の城壁と城門塔の基部などを残してノッティンガム城の構造物のほとんどが解体撤去された。
王政復古の後、ニューカッスル公ヘンリー・キャベンディッシュが城のあった土地を購入し邸宅を建てる。現在主郭跡地に立つ城館がこれである。
1831年、議会改革反対派の急先鋒として知られていた4代ニューカッスル公に反発する暴徒に襲撃され炎上。骨組しか残らないほどになってしまった。
その後ノッティンガム市議会によって修復され、現在は博物館・美術館として使われている。そのほか旧三の丸部分の庭園も公開されている。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|イングランド、イースト・ミッドランズ、ノッティンガム|
|現存状態|城壁、城門塔|
|城郭構造|囲郭式城郭|

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)};
}}}
#style(class=submenu){{{
**城郭構造

丘の頂上部がモットを持つ主郭、その北側一段下がった場所に二の丸(内郭)、その東側の更に下がった所が三の丸(外郭)と言う構成。
地形を活かして主郭の背後側は切り立った崖になっており、外郭から順に進まなければ主郭に辿り続けない構造になっていた。
それぞれの郭は城壁と空堀で囲まれ、その各所に塔を設置、また連絡路にはそれぞれ城門塔を築いて防御を固めていた。
しかし徹底した破却によって、現在残る遺構はわずかである。その中でも特筆するべきは地下に掘られていた地下牢の跡地であろう。
城の建つ砂岩は掘削しやすく強度が高かったことから、前述の秘密トンネルや地下牢以外にワインセラーや食料の保管庫にも使われていた。
また城の直下、モーティマーズホールの出口のそばにあるパブ「ジ・オールド・トリップ・トゥ・エルサレム」は1189年創業を謳うイギリス最古のパブとして有名である。かつては城の醸造所だったともいい、垂直にくりぬいた連絡坑で城の中に直接酒を搬入できた。
なお現在の建物は17世紀以降のもので、店名も18世紀以前は「ピルグリム(巡礼者)」だった。どちらの名もエルサレム巡礼が元ネタ。
十字軍に出立する前のリチャード獅子心王がここで軍議と宴を開いたという言い伝えもあるが、本当のところは定かではない。

}}}

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS