ドゥフツォフ城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
プラハから北西約70km、褐炭大地上にありチェコでは有数のバロック様式の城である。
始まりは12世紀中頃、ボヘミアの大貴族フラビシッチ家のボレシュ2世が、ボヘミア王ヴァーツラフ1世と次男オタカル2世の叛乱の際築城された。
ボレシュ2世はヴァーツラフ1世に従い戦功を挙げ最高侍従長に任命されたが、ヴァーツラフ1世の長男が早世したため弟のオタカル2世が即位すると、最高侍従長を解任されてしまう。
それでも王家に忠誠を誓いオタカル2世を奉じていたが、次第に関係が悪化し最後は処刑されてしまい城も没収された。
13世紀リーセンブルク家が王家から購入した。後に褐炭採掘が好調で北ボヘミアでは有数の資産家となったが、15世紀になると低迷しマイセン辺境伯(のちザクセン選帝侯)へ売られた。
ただ、王家の許可を取らなかったので抗争が起き一旦は没収されたが、後に返却されている。

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フス戦争中の1425年にプロコプ率いるフス派に襲われ、街が焼かれ城も全焼してしまう。
戦後、今度はザクセン選帝侯((元マイセン辺境伯))とボヘミア王との間で領土問題から抗争が起き、1459年エーガー条約で国境が確定された。
この国境は現在もチェコ・ドイツ間の国境であり、ヨーロッパで最も古い国境でもある。
城もボヘミア王の物となったが1527年、王家の忠臣であったロプコヴィッツ家のテオバルドに下げ渡された。
フス戦争で焼かれ廃墟となっていた城をルネサンス様式で改築を行い居城とした。因みにテオバルドの弟のひ孫が[[ロケト城]]で初めて囚人として亡くなっている。
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だが1634年、今度は30年戦争中のスウェーデン戦争でスウェーデン軍により、再び街が焼かれ城も大きな被害を受け、さらに当主のフランツ・ヨーゼフが跡継ぎを残さず死去してしまう。
1642年未亡人となったフランツの妻マリーはヴァレンシュタイン家のマクシミリアンと再婚すると、城は修復された。
マクシミリアンは30年戦争で有名な一族((高祖父が一緒))のアルブレヒト・ヴァレンシュタイン傭兵隊長と共に戦場を駆け、特にボヘミア王フェルディナント3世((のち神聖ローマ帝国皇帝))に気に入られ、
ボヘミアの主席厩務員(ボヘミア国内4番目の地位)に就任している。なお多大な軍事功績を挙げたアルブレヒトは大元帥(3番目)だった。
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1675年から10年をかけマクシミリアンの子ヨハン・フリードリッヒによってバロック式へと改築された。
現在残っている建物はこの時代のものである。またヨハンはプラハ大司教に就任しており、城の敷地内に教会や病院も建てている。さらに各地から蒐集した本で城に図書館を作った。
この図書館で有名なのは、1785年から死ぬまでの13年間司書を務めたヴェネツィア出身の作家・冒険家・哲学者で世紀の女たらし、ジャコモ・カサノヴァであろう。
ジャコモ・カサノヴァの哲学に興味を持ったヨゼフ・カレルは彼を招き司書としたが、ボヘミア王国の宰相で国もプロイセンに圧迫されていたため多忙を極め話し相手が出来ず、
またヨゼフの使用人もカサノヴァを邪険に扱い、寂しい終焉だった。それでもこの13年間に6冊の本の執筆と、12冊にも及ぶ回顧録『我が生涯の物語』を完成させている。
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跡を継いだ植物学者でもあるフランツ・アダムは、温室や無数の観葉植物を植えたり噴水を作るなど庭園を大幅に改良した。また城の外観を新古典主義に変更している。
19世紀になると北東5kmのテプリツェの温泉がブームになり、教会や庭園を目当てに城を訪れる訪問客が急激に増加した。
文学者のシラー・ゲーテ、音楽家のシューベルト・ワーグナー・ベートーベン等がこの城を訪れている。他にもショパンが1835年にコンサートを行っている。
フランツ・アダムの跡は従弟が継いだが、1901年孫の代に断絶したため別家のヴァレンシュタイン家が継ぐも1921年州へ売却された。
その際22000冊にも及ぶ図書館の本や家具・美術品が別家の城へと持ち去られてしまった。
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第二次世界大戦中の1945年、ソ連軍の火の不始末から火災が発生、城教会が全焼してしまう。戦後は城や庭園よりも褐炭採掘が優先となり、病院が解体され庭園もひどく荒らされた。
1960年代にようやく城や庭園の修復が始まり2013年まで続いた。また2011年には城博物館が開館し、ジャコモ・カサノヴァの生涯も紹介されている。
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|所在地|チェコ ウースチー州 テプリツェ郡 ドゥフツォフ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|連郭式平城|

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