選帝侯トリーア大司教のバルドゥイン・フォン・ルクセンブルクが推した兄ハインリヒ7世が神聖ローマ帝国皇帝になると その力を背景に拡大に勤しんだが、これに対抗したのがブルク・エルツ城?領主のエルツ家であった。 1331年、この両者で戦いが勃発した。トリーア大司教軍がエルツ城に攻め寄せたが、守りが固く攻め落とせなかった。 そこで、大司教軍はエルツ城の北へ230m、40mの山に陣城を築いた。これがトルツェルツ城である。
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陣城と言っても柵で囲んだレベルではなく、縦横30×25メートル、周囲から集めた自然石のみならず切り出し石も使われ、 粘土と漆喰で固め10m程の塔や城壁があった。ただしヨーロッパ風土に対する耐久性はなかった。 ここからエルツ城に向けて、投石機や初期の大砲も使われたと云われるが大きな効果は無く、専ら兵糧攻めの攻囲が行われた。 戦闘は2年に亘って行われ、1333年、エルツ城は降伏・開城した。1337年、調印が結ばれエルツ家はトリーア大司教の騎士となった。 1354年、ハインリヒ7世の孫で神聖ローマ皇帝カール4世はトリーア大司教に推されて皇帝になったにも関わらず、 帝国に仕え続けたエルツ家の功績を認め、エルツ家の独立保障を行うとトルツェルツ城は重要性を失い維持されなくなった。 1453年、完全に放棄され廃城となった。
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