トラカイ城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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ドイツ騎士団の宿敵としてバルト海沿岸から黒海沿岸にかけて勢力を誇った東欧の大国、リトアニア大公国の重要拠点で、「小さな[[マルボルク城]]」とも呼ばれる。
トラカイ城はリトアニア大公国繁栄の礎を築いた大公ゲディミナスによって、1337年頃に首都ケルナヴェ付近のガルヴェ湖畔に築かれたのが始まりとされる。
彼の子でトラカイ公のケーストゥティスはガルヴェ湖の島に新たに城を築き、これが現在見られるトラカイ島城となる。
ケーストゥティスの子にはリトアニア最大の英雄と称されるヴィータウタスがいたが、ケーストゥティスは甥にあたるヨガイラとリトアニア大公位を争って敗死し、ヴィータウタスはマルボルク城のドイツ騎士団の下へと亡命した。
1383年にヴィータウタスはドイツ騎士団とともにトラカイ城を攻略し、1392年にオストロフの和平を結び、リトアニアは実質的にヴィータウタスが統治することとなった。

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これに先立つ1385年のクレヴォの合同によって、ヨガイラはポーランド王ヴワディスワフ2世として即位し、ポーランド・リトアニア連合が成立した。
さらに1401年のヴィリニュス・ラドム合同によって、ヴィータウタスは正式にリトアニア大公に即位し、ポーランドとリトアニアとの合同はより強固なものとなった。
ヴィータウタスはヴィリニュスを首都としたが、治世の多くを過ごし公国の政治・行政上の中心地として実質的に首都として機能したのはトラカイであり、1409年頃に石造のトラカイ城を完成させた。
トラカイ城は島全体を城域とし、主要部分は上城と下城に分かれて跳ね橋でつながれ、これらが多重の城壁で囲まれており、外郭が島の残り部分を占めていた。
「小さなマルボルク城」とも呼ばれるように、ヴィータウタスが一時期ドイツ騎士団と結んでいた際に得たマルボルク城の設計技術が一部に導入され、マルボルク城で特徴的な赤煉瓦がトラカイ城でも用いられている。
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1410年、ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団との決戦であるタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)に勝利したヴィータウタスはさらに勢力を拡大し、フス戦争に介入し、モスクワ大公国に政治干渉を行い、さらにルツク公会議を主催するなど、東欧の大国としての地位を確固たるものとした。
しかし一方で、ドイツ騎士団の脅威が去ったことによってトラカイ城の重要性は低下していった。
1569年のルブリン合同によってポーランドとリトアニアが同君連合となると、その中心地がクラクフへと移動したことでトラカイの重要性もまた失われていった。
17~18世紀にかけてはロシア・ポーランド戦争やモスクワ大公国との戦争、大北方戦争でトラカイ城は破壊されて廃墟となり、荒廃した。
19世紀末になってようやく再建計画が進められ、1961年に上城が再建され、そして1990年代初頭に下城の再建が完了した。

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|所在地|リトアニア、ヴィリニュス郡トラカイ|
|現存状態|再建造物|
|城郭構造|平城(水城)|

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