チットールガル城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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ラージプートの御三家と称されるラージャスターンのアンベール王家、マールワール王家、メワール王家のうち、メワール王家が居城とした城。
ラージャスターンの平原に突出した標高約150メートルの岩山全体を利用した巨大な城砦で、その周囲は約13キロメートル、総面積は2.8平方キロメートルにもおよぶ。
メワール王家はその起源を7世紀にまで遡るラージプートのなかでも最も古い家系に属し、王都チットールをめぐる攻防は北インドの歴史と深く関わるものであり、ラージプートの伝統が形成されていくものでもあったため、チットールガル城はラージプートの武勇の象徴と評される。
それだけにチットールガル城における攻防戦は激しいものであり、1303年のハルジー朝スルターン、アラー・ウッディーン・ハルジーによる包囲の際には7ヶ月間にわたって抵抗したが、その末に城兵は女子を含め玉砕した。
この戦いは動機はマリク・ムハンマド・ジャーイスィーが1540年に書いた叙事詩『パドマーヴァット』で、アラー・ウッディーン・ハルジーがメワール王ラタン・スィングの王妃パドミニーに恋をしたためとされているが、これはラージプートのヒロイズムと女性の貞節を強調した「パドミニー伝説」からくるものであり、あくまでも伝承とされる。

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メワール王国はヴィクラマーディティヤ・シングの時代にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーのよる侵攻に遭い、チットールガル·城は包囲された。
この時ヴィクラマーディティヤ・シングはラージプートとしての誇りからムガル皇帝フマーユーンに救援を求めることを躊躇い、母后のラーニー・カルナーヴァティーが手紙で救援を求めたものの、イスラームであるフマーユーンは異教徒のメワール王国を助けるわけにはいかないと断った、という伝承がある。
この伝承は史実ではないとされるが、事実としてフマーユーンはチットールガル城の陥落後にバハードゥル・シャーと戦い、これを破ってチットールガルから追放している。
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ムガル帝国ではフマーユーンの死後アクバルがその後を継ぎ、ラージプートとの同盟を進めた。[[アンベール>城塞都市アンベール]]のマーン・スィングは1562年にいち早くアクバルに臣従したが、メワール王ウダイ・スィング2世はこれを拒否した。
アクバルは1567年10月にチットールガル城を包囲し、翌年2月末に陥落させた。ウダイ・スィング2世は山間のウダイプルに逃れてゲリラ戦によって抵抗したが、1572年に死去する。
その一方で城を守って玉砕したメワール王国の武将ジャイマルとパッターにアクバルは感銘を受け、[[アーグラ城]]に二人の石像を建てている。
ラージプートの武勇の象徴とされるチットールガル城の陥落は各地のラージプートの王に大きな影響を与え、相次いでアクバルに服属していった。
そのような状況でウダイ・スィング2世の子プラタープ・スィングは王都をウダイプルに移し抵抗を続けたが、1576年にハルディー・ガーティーの戦いでアクバルに敗れると、1578年までにメワール王国を除いてラージャスターンはアクバルによって征服された。
プラタープ・スィングは同じラージプートの王であるアンベール王マーン・スィングの説得を受けたが拒絶し、最後までムガル帝国に抵抗し続けた。
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アクバルの死後はジャハーンギールがムガル皇帝となり、なかなか進展しなかったメワール王国征討に本腰を入れて子のフッラム(後のシャー・ジャハーン)を派遣し、フッラムはメワール王国の補給線を断った上でメワール王アマル・スィングを追い込み、1616年にようやく降伏させた。
こうしてメワール王国の独立は終わったが、ジャハーンギールはメワール王の武勇を讃えてチットールガル城の修復をしないという条件で領土を安堵し、ムガル宮廷への王の出仕やメワール王の王女のムガル皇室への輿入れなどを免除した。
しかし1652年に即位したラージ・スィングはムガル帝国との条約を破ってチットールガル城を修復し、ムガル帝国軍の侵攻を招いた。これはラージ・スィングの謝罪によって許されたが、その後ムガル帝国て帝位継承者争いが起こった際には再びチットールガル城を修復し、ムガル帝国領を攻撃している。
そんななか、新たにムガル皇帝となったアウラングゼーブはヒンドゥー教寺院の破壊やジズヤの復活など抑圧的な政策を断行し、これに反発したラージ・スィングはマールワール王国のドゥルガー・ダースなどとともに1679年に反乱を起こした。
アウラングゼーブは直ちにメワール王国に侵攻し、王都ウダイプルやチットールガル城を占領した。ラージ・スィングはゲリラ戦で抵抗したものの1680年に死去し、その後を継いだジャイ・スィングはアウラングゼーブに降伏し、以後チットールガル城は修復されることなく廃墟となった。
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2013年、チットールガル城は「ラージャスターンの丘陵城塞群」の構成資産としてアンベール城などとともに世界遺産に登録された。

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|所在地|インド、ラージャスターン州ウダイプル県チットールガル|
|現存状態|城壁、塔、宮殿など|
|城郭構造|山城|
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