シヨン城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報フランスからグラン・サン・ベルナール峠を経てイタリアへと通じる街道を押さえる交通の要衝に位置した、レマン湖東端の湖畔に突き出る島の上に築かれたスイス随一の名城。 古代にはローマの駐屯地が置かれたこの地に1005年にシヨン司教が城を築き、この時にシヨン城中央部の城塔が建てられたとされる。 1150年にはレマン湖の南側に勢力を広げていたサヴォイア伯国が侵攻し、シヨン司教と友好関係を築いてシヨン司教の代官職を獲得し支配下に置いた。 現在見られる建造物の多くはこのサヴォイア伯国時代のものであり、13世紀のサヴォイア伯ピエトロ2世がシヨン城の大改修を行った。ピエトロ2世は外城壁と城塔群を築き、4棟の大規模な城塔と陸側の二重城壁にはマシクーリを設けて防備を強化した。14~15世紀には城壁と城塔がさらに高くなるよう増築され、城門も再建された。 サヴォイア伯はシヨン城を夏の居住地として使用しており、常に在城していたわけではなく普段は代官が置かれていた。またシヨン城はサヴォイア伯がレマン湖に展開した艦隊の拠点としても用いられ、サヴォイア伯による支配は16世紀まで続いた。 フランスからグラン・サン・ベルナール峠を経てイタリアへと通じる街道を押さえる交通の要衝に位置した、レマン湖東端の湖畔に突き出る島の上に築かれたスイス随一の名城で、「レマン湖の女王」の異名を持つ。 古代にはローマの駐屯地が置かれたこの地に1005年、シヨン司教が城を築き、この時にシヨン城中央部の城塔が建てられたとされる。 1150年にはレマン湖の南側に勢力を広げていたサヴォイア伯国が侵攻し、シヨン司教と友好関係を築いたうえで代官職を獲得、この地を支配下に置く。 現在見られる建造物の多くはこのサヴォイア伯国時代のものであり、13世紀のサヴォイア伯ピエトロ2世がシヨン城の大改修をおこなうこととなる。 ピエトロ2世は外城壁と城塔群を築き、4棟の大規模な城塔と陸側の二重城壁にはマシクーリを設けて防備を強化した。14~15世紀には城壁と城塔がさらに高くなるよう増築され、城門も再建された。 続きをクリックで表示 サヴォイア伯はシヨン城を夏の居住地として使用しており、常に在城していたわけではなく普段は代官が置かれていた。またシヨン城はサヴォイア伯がレマン湖に展開した艦隊の拠点としても用いられ、サヴォイア伯による支配は16世紀まで続いた。 スイスでは13世紀にゴッタルド峠が開通して主要な交通路となり、グラン・サン・ベルナール峠の重要性は失われ、サヴォイア伯国はイタリア方面を重視するようになった。 シヨン城もまたサヴォイア伯国にとって重要な城ではなくなり、1536年にはベルンの軍勢に攻撃され、3週間の包囲の末に落城した。この時、サヴォイア伯によって城内に幽閉されていた宗教改革者フランソワーズ・ボニヴァルが救出されたという。 ベルンはこの地を12の行政区に分け、シヨンはヴヴェイの中心地に位置づけられた。シヨン城はベルンによって代官が置かれ、武器庫や牢獄、レマン湖の艦隊の工廠として用いられたが、中世以来の城郭は居住性が悪かったため、1733年にはヴヴェイのより近代的な居館へと拠点が移された。 ベルンはこの地を12の行政区に分けてシヨンをヴヴェイの中心地に位置づけた。 ベルンはシヨン城に代官を置き、武器庫や牢獄、レマン湖の艦隊の工廠として用いたが、中世以来の城郭は居住性が悪かったため1733年にはヴヴェイのより近代的な居館へと拠点を移した。 1798年、フランス革命の影響がスイスにも波及し、ヴォー州はナポレオン・ボナパルトから支援を得て革命を起こし、ベルンから独立した。1803年にはヴォー州はスイス連邦に加盟し、以後シヨン城は現在に至るまでヴォー州が管理することとなる。 シヨン城は引き続き武器や弾薬の保管庫、牢獄として用いられた。1816年にはイギリスの詩人バイロンが訪れ、シヨン城に捕らえられていたフランソワーズ・ボニヴァルを詠った『シヨンの囚人』や『シヨン城詩』を発表し、シヨン城は多くの観光客を集めるようになった。 1798年、フランス革命の影響がスイスにも波及し、ヴォー州はナポレオン・ボナパルトから支援を得て革命を起こしてベルンから独立した。 1803年にはヴォー州はスイス連邦に加盟し、以後シヨン城は現在に至るまでヴォー州が管理することとなる。シヨン城は引き続き武器や弾薬の保管庫、牢獄として用いられた。 1816年にはイギリスの詩人バイロンが訪れ、シヨン城に捕らえられていたフランソワーズ・ボニヴァルを詠った『シヨンの囚人』や『シヨン城詩』を発表し、シヨン城は多くの観光客を集めるようになった。 19世紀末にはヴォー州の考古学者アルバート・ネフがシヨン城の修復を任され、この修復工事は現在も続けられている。
甲冑騎士の亡霊(クリックで表示) 甲冑騎士の亡霊城に幽霊話はつきものである。「レマン湖の女王」の異名をもつシヨン城も多分に漏れず奇妙な話が残る城の一つだった。 この城に住まう貴族ピエール・スタニェールにはカトリシアという妻がいた。この話の主人公はこの妻である。 ピエールは家臣であり兵士であるボレン・マイヨールに全幅の信頼をおいており、戦争になれば二人は嬉々として戦場に赴いていった。 仲睦まじい主従関係を築けている好例とも見て取れるが、カトリシアは二人にある疑念を抱いていたのだ。「二人は男色でしかも愛人関係ではないか?」という疑懼であった。 ボレンは若く美しい青年兵士だったようで、その美貌からたしかに疑われても仕方がない。治まりのつかないカトリシアはさっそく夫ピエールの寝室に覗き穴を開けた。 すると驚いたことに夫ピエールと家臣のボレンは互いに裸になり抱き合っていたのである。嫉妬に狂ったカトリシアは夫の留守中を見計らってボレンを捕らえ地下牢獄へと叩き込んでしまう。 容疑は「夫の寝ているすきを見て暴行を加えようとしていた」というものだった。帰宅した夫はその話を聞かされ信じられない様子だったが、証人もいるためボレンをどうすることもできなかった。 数日後、城の外は大嵐となりレマン湖は水が溢れかえって、ボレンの居る地下牢にまで浸水してきた。岩に鎖でつながれているせいで脱出できず、彼はそのまま溺れ死んでしまう。 それからというもの、カトリシアの寝室には毎夜、甲冑を着た騎士がコツコツと跫音を立てて歩く音が聞こえるようになった。亡霊に悩まされたカトリシアはそのままノイローゼとなり、1ヶ月後に死んでしまう。 彼女が死んでからというもの、騎士の亡霊は一切姿を見せなくなり、シヨン城はもとの美しい「レマン湖の女王」に戻ったと伝えられている。 コメント |
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