シュヴェリーン城 のバックアップソース(No.1)
7つの湖の街と称されるシュヴェリーンの最大の湖、シュヴェリーン湖の島の上に建てられた城で、「北の[[ノイシュヴァンシュタイン城]]」・「おとぎ話の城」とも称される。
始まりは10世紀頃スラブ民族の砦があったと云われ、城名の由来もスラブ語で神の名前説があるが正確には分かっていない。
1160年ハインリヒ獅子公は、隣国の異教徒スラブ人国家オボドリトへ北方十字軍を起こした。初戦はオボドリト族長ニクロトが勝ちシュヴェリーン砦も破壊したが最後は敗れ討たれてしまった。
砦とシュヴェリーン郡は獅子公の家臣グンゼリン1世に与え、残りはニクロト息子で獅子公に降ったプリビスラフに与えられた。
プリビスラフはメクレンブルク家を起こし、1348年子孫のアルブレヒト2世は、グンゼリン1世の子孫オットー1世からシュヴェリーン城を購入すると本拠地とした。
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1553年芸術に造詣の深いアルブレヒト1世は城を快適性と芸術性を高めるため、フランス・イタリア・ドイツ各地から芸術家を呼び、[[ハイデルベルク城]]や[[スフォルツェスコ城]]に見られるような、ブリックルネサンス様式で改築を行った。また、これとほぼ同時に周囲に現在も一部が残存している稜堡も作られている。
1618年から始まった30年戦争ではメクレンブルク家はスウェーデン・神聖ローマ帝国の間で中立の立場を取るも、密かにデンマーク=ノルウェーを支援したため、これが帝国の逆鱗に触れ城から追放されてしまう。しかし追放を指示した将軍が討死すると何とか戻ることができたが、スウェーデン・帝国双方の軍に国は荒らされ人口も1/6まで減少したという。
7年戦争では帝国から強制的参戦を命じられ人口が激減し終結した翌1764年、フリードリヒは父が建てた南に35kmにある夏の離宮ルートヴィヒスルスト城へ移ってしまう。
移転理由は定かではないが、争いを好まず穏やかで「敬虔王」と称される程で戦争で荒んだ国土に嫌気が差したための気分転換ではないか?、という説がある。
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1837年、3代後のパウルは跡を継ぐとシュヴェリーン城へ戻るものの、70年以上経過した城は古臭くコンディションも悪かったため新たな宮殿を築こうとしたが、完成前に亡くなると中止された。
その後は居城とされ、1843年の城の改築再建時ドイツ各地から建築家を募りプレゼンを行った結果、選ばれたデムラーや[[ホーエンツォレルン城]]を再建したシュテラーは金メダルを受賞している。
現在に至る先祖のニクロトの像やルネサンス・リバイバル様式の建物、橋・門・庭園等はこの時のものである。1857年完成したが1913年火事により1/3が焼け修復が行われるも、1918年のドイツ革命でメクレンブルク家は公位を追われ城も完全修復はされなかった。
持ち主が国に移ると博物館や幼稚園・戦時病院に用いられた。第二次世界大戦では数度の空襲に遭ったものの、街に重要施設がなかったため生き延びる事が出来た。
戦後は東ドイツ領となり州議会の議場となった。これは現在も続いている。ドイツ統一後ようやく修復作業が本格的に行われ現在に至っている。
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1843年の改築再建時[[シャンボール城]]を参考にしたとされ、1981年にシャンボール城が城で単独の世界遺産になるとシュヴェリーン城も単独で世界遺産に。と立候補したが敢え無く却下されている。
それでも諦めず、城の他鳥獣保護区を加えた別の方法で登録できないか模索中である。
余談だが、シュヴェリーン城から追放されたスラブ民族を先祖に持ちドイツ諸侯で最も古い家名を持っていたメクレンブルク家は2001年断絶してしまった。
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|所在地|ドイツ、メクレンブルク=フォアポンメルン州、シュベーリン|
|現存状態|再建|
|城郭構造|中庭型ルネッサンス式平水城|

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