コルネット城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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イギリス王室属領のチャンネル諸島ガーンジー島の東海岸、島最大の港町セントピーター・ポートの沖合にある小島を城としたもの。
ジャージー島の[[オーゲイル城>モント・オーゲイル城]]と同じく、1204年にジョン王が大陸領土を失ったのち、ガーンジー島防衛のために築城された。
かつては港の約200メートル沖に浮かぶ潮間島だったが、その後の城の拡張や港の拡大で現在では防波堤を介して陸続きになっている。
現在では博物館として保存されており、今もなお毎日正午には午砲が撃ち鳴らされている。

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最初期の城は主城塔と教会堂および二つの郭を石造の城壁で囲んだ囲郭式城郭であった。
英仏百年戦争の初期には[[ヴェール城]]と同じくこちらも占領され、その後もやはり同様にフランス側からの攻撃に晒される。
15世紀初期に攻撃に対抗して新しい防御塔が建てられるなどして強化された結果、1461年のフランスの攻撃は撃退に成功した。

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さらに16世紀後半から17世紀初頭にかけて、大砲技術の向上にしたがって大規模な改築が断続的に行われ、砲台や堡塁が追加された。
1642年に内戦が勃発すると、ガーンジー島では議会派が主流となった。しかし総督ピーター・オズボーン卿は王党派で、同調する軍と共に城に籠城。
ガーンジー島を席巻した議会派軍との間で包囲戦に発展し、セントピーター・ポートの町にはコルネット城から砲撃が浴びせられた。
ジャージー島を制圧した王党派ジョージ・カートレットの支援もあり、コルネット城は議会派軍を寄せ付けず、実に9年にわたって籠城を続けた。
1651年、ジャージー島に議会派軍が上陸しカートレット卿以下王党派が降伏。これによって支援が得られなくなったことがわかると、コルネット城も降伏・開城した。
王党派の城としてはもっとも長く耐え抜いたうちのひとつであった。

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1660年の王政復古の後に城は修復され、要塞としてだけではなく総督公邸としても使われるようになった。
しかし1672年、火薬庫として使われていた塔に落雷が直撃し、周りの建物も巻き込む大爆発を引き起こす。
総督ハットン卿の母や妻、城の使用人たち多数が亡くなる大惨事となり、これ以降公邸としては使われなくなった。
この時吹き飛んだ中世からの伝統ある大広間と教会堂はその後ついに再建されなかった。
ナポレオン戦争中に再び改装を受けて兵舎が増築され、捕虜収容所にもなった。また19世紀を通じて港の防波堤が延伸され、城と本島が直結された。
第二次大戦ではチャンネル諸島はドイツ軍に占領され、島の各所に砲台や監視哨が設けられた。コーネット城もまた沿岸砲台として使われた。
終戦後の1947年、国王ジョージ6世の勅令によって王室の管理から島民の共有資産になり、島の歴史を展示する博物館となって現在に至っている。

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|所在地|チャネル諸島、ガーンジー島、セントピーター・ポート|
|現存状態|主要部現存|
|城郭構造|稜堡式城郭(島城)|
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