ケーニヒスベルク城 のバックアップの現在との差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] [[マルボルク城]]から移ったドイツ騎士団の本拠地にして、プロイセン王国の王城であった城である。 初名はトゥワンクステ(堰のある池)でバルト・プロイセン人の砦があったが、1255年北方十字軍としてドイツ騎士団が侵攻し制圧した。 その際十字軍の資金を出資してくれたボヘミア王オタカル2世に敬意を表し、地名をKönigs(ケーニヒス/王の)berg(ベルク/山)と改名した、と同時に城の築城も行われ1258年に完成した。 カトリック教同化に反対し、1260年から3年続く叛乱を起こしたバルト・プロイセン人によっていくつかの城は陥とされたが、ケーニヒスベルク城は耐えることができた。 これ以降は、しばらく十字軍としてエルサレム奪回のため活躍したため大きな戦いは起こらなかった。 //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 1340年にはハンザ同盟に加わり、バルト海の主要港として発展していきドイツ騎士団の最盛期を迎えていた。 しかし1386年事態が大きく動く。リトアニア大公とポーランド女王が結婚しカトリック教王国のポーランド・リトアニア同君連合が発足すると、異教徒であったリトアニア討伐のためのドイツ騎士団であったが、一気に存在意義を失ってしまう。 リトアニアの改宗は本心ではないと主張し戦いを続けるが、1410年ポーランド・リトアニアとのタンネベルクの戦いに敗れ、賠償金の支払いのため城下町に重税を課すと、1440年に反ドイツ騎士団同盟のプロイセン同盟が組まれ城下町もこれに参加してしまう。 これにポーランドが手を貸し十三年戦争が勃発した。1457年には傭兵の支払金不足のためドイツ騎士団の居城マルボルク城が売り渡されると、新たな居城となった。 ただマルボルク市民はこれに対抗し、市長の指揮の下3年もの間ポーランドから守り抜いたが、降伏後市長は処刑されてしまう。 1466年に終結するとポーランドはドイツ騎士団を支配下に置いた。単独ではポーランドに勝てないと悟った騎士団はドイツ諸侯の子弟から団長を選ぶようになり、 1519年騎士団長に就任したアルブレヒトはポーランド王ジグムント1世の甥にも関わらず、実家のブランデンブルク選帝侯から支援を受けポーランドと開戦に踏み切った。、 ケーニヒスベルク城も攻め込まれたが防衛に成功したものの、決定的な勝敗が決まらないまま、オスマン帝国がハンガリーへ侵攻したため神聖ローマ皇帝カール5世の要求により休戦となった。 諦めたアルブレヒトは、カトリックからプロテスタントへ改宗しドイツ騎士団を解散させプロイセン公国を成立させ、初代公主になると代々[[ホーエンツォレルン家>ホーエンツォレルン城]]で世襲され後のドイツ皇帝へと繋がって行く。 #br ようやく争いが終わったため城も改築が行われるようになった。戦いのための要塞であったが、居住地としてルネサンス様式の宮殿へと変貌していった。 特に大広間は1815年の百科事典によると[[ヴェルサイユ宮殿]]の鏡の間よりも大きい83.5 m X 18 mもあった。 また[[城塞都市ルシュノフ]]のような要塞聖堂であったため、中央にあった教会の改修も行われ、建築史において重要なプロテスタント教会となった。プロイセン王国の戴冠式もここで行われた。 大学も開かれ哲学者のカントや、一筆書きで有名な「ケーニヒスベルクの7つの橋」もブレーゲル川に実際に架かっていた橋を使っていた問題で数学者のオイラーが証明している。 さらに1840年代には首都防衛として近代化改築が行われ、街を囲む全長43 kmの要塞線が構築された。 1941年6月ナチスドイツ軍がソ連と開戦しソ連領へ攻め込むと、[[エカテリーナ宮殿]]にあった「琥珀の間」をドイツ風に言うと奪還し、ケーニヒスベルク城の宮殿博物館にて再構築された。これが最後の輝きであった。 #br 反転後ソ連軍・英軍が空爆を行い街が40%、城の殆どが大破してしまった。「琥珀の間」も移されたというがこの時焼失した可能性もある。&color(Silver){ちなみにどっちがやったかはなすりつけあってる。}; 追い打ちをかけるように1945年4月ソ連軍が地上侵攻を行い街の90%が破壊された。ただ城の城壁は耐えた部分もあった。 戦後ソ連の飛び地となり市名もカリーニングラードへ改名された。 城の最後は悲惨なものだった。1959年主塔が爆破、1968年ソ連の市民や知識人の反対があったが、ドイツを払拭するため残っていた城壁や建物も全て爆破・解体された。 1970年に城跡地内に地区共産党本部の「ソビエトの家」が建てられたが、建設途中地盤沈下が起こり中止された。このため「ケーニヒスベルク城の呪い」とも云われている。 現在も廃墟建築物として存在しており、財政難やコロナで遅れに遅れていたが2021年5月に解体作業が始まるとされている。 #br }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|ロシア カリーニングラード州 カリーニングラード| |現存状態|なし 要塞線は一部現存| |城郭構造|ルネサンス式平城| //#br *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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