ケーニッヒシュタイン城 のバックアップソース(No.1)
東ドイツのドレスデン近郊、チェコとの国境近くにある比高差240mの山の上にある堅固な要塞である。ドイツ語ではKönig(国王)stein(石)。
始まりは不明だが12世紀頃の遺構が確認されており、最初に史料に出現するのは1233年ゲプハルト・フォン・シュタイン城伯の名が
ボヘミア王ヴァーツラフ1世の文書中に出てきており、当時はボヘミア王が所持していた事が分かる。
1359年に神聖ローマ帝国の首都を[[プラハ城]]と定めたボヘミア王かつ神聖ローマ皇帝のカール4世は、改修と、この城を他国へと割譲しないよう命じている。
だが1409年、この地を治めていたヤシュカ・ドーナとマイセン辺境伯後にザクセン選帝侯となるヴェッティン家フリードリヒ1世との間で確執が起こると、
ヤシュカ家の親戚だったケーニッヒシュタイン城伯も巻き込まれ、敗北するとヴェッティン家の物となった。
神聖ローマ帝国では貴族間の争いは皇帝が関与せず当人同士が自助によって解決されており、しょっちゅう小競り合いが起こっておりこの確執も数多くの1つに過ぎない。
何故なら、ボヘミア王所持のケーニッヒシュタイン城を手に入れたフリードリヒ1世は、その後もボヘミア王に協力しているのである。
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1459年エゲル条約により、ボヘミア国とザクセン選帝侯領の国境が定められ正式にザクセン選帝侯所持となった。
1563年転機が訪れる。これまでは王が滞在するような城だったが要塞機能が追加されることとなった。
まず、[[モーリッツ>モーリッツブルク城]]の子アウグストは水の確保のためヨーロッパでは第4位、活用中なら2位の152.5mの井戸を掘った。
跡を継いだクリスチャン1世とその子クリスチャン2世は9年に亘り城壁・兵舎・武器庫等を整備した。これらはいずれも現存している。
この後も要塞として整備される一方で、1619年には狩猟館が作られたりと宮廷の催しに対応できるような整備も行われ、
1725年にはアウグスト強健王が、巨大ワイン樽製造競争で238,600Lという世界1位のワイン樽を作っている。
残念ながら1818年老朽のため破棄されてしまったが、対戦相手の樽は[[ハイデルベルク城]]に現存している。
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1756年これまで平穏だった城についに戦火が開かれる。七年戦争におけるピルナ包囲戦である。
守るはアウグスト2世率いるザクセン軍18,600、攻めるはフリードリヒ2世大王のプロイセン軍60,000である。
ケーニッヒシュタイン城を中心とした防衛ラインを見たフリードリヒ大王は「緻密に計算された、ヨーロッパでもっとも強力な陣地のうちの一つ」と称し攻囲・兵糧攻め行った。
攻囲されて1ヶ月後、兵糧攻めに苦しんだザクセン軍は援軍に来たオーストリア軍と合流しようとしたが失敗、殆どの兵が孤立状態となり降伏した。こうして初陣は攻囲されただけで終わった。
ナポレオン戦争中は当主フリードリヒ・アウグスト1世が上手く立ち回ったため攻められる事はなく、1813年ライプツィヒの戦いの前哨戦として城下で小競り合いがあった程度だった。
しかしアウグスト1世がフランス寄りでワルシャワ公国の領主にも就いており、ワルシャワを狙っていたロシアに捕えられ、
ウィーン会議でザクセン領土のうち約6割がプロイセンに割譲、ワルシャワもロシアに取られてしまった。
残った唯一の要塞がケーニッヒシュタインだったため、1816年からさらに改築が行われ、武器庫・食糧庫・兵舎、城壁上に稜堡も作られた。
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1848年、難攻不落を誇っていたこの要塞がついに陥とされてしまう。しかもたった1人の19歳の市民によって。
彼の名はセバスチャン・アブラツキー、ドイツ生まれの煙突掃除屋だった。彼はケーニッヒシュタイン城に見学に来たが金が無く入場料を払えなかった。
どうしても諦めきれなかった彼は、煙突掃除で培った技術を活かし高さ35mの崖を登り切り難攻不落だった城をたった1人で陥とし、すぐに警備員に捕まった。
現在では彼が登った所を「アブラツキーの煙突」と称してクライミングの名所となっている。
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1866年普墺戦争でも攻囲されたが、ザクセンの首都が陥とされると降伏した。これ以降戦火に曝される事なく現在に至る。
以降はドイツの捕虜収容所や刑務所として利用され、1945年ソ連が占領すると赤軍の再教育施設として使われた。
1955年、軍事歴史野外博物館として開放され、1991年ザクセン州に管理が移り現在は公益社団法人が管理している。
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|所在地|ドイツ、ザクセン自由州、ザクセンスイス-オスターツゲビルゲ郡、ケーニッヒシュタイン|
|現存状態|現存|
|城郭構造|複合(輪郭・稜堡)式山城|

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