クリープシュタイン城 のバックアップソース(No.1)
「ザクセン州で最も美しい騎士の城」と云われる比高45mの川岸の崖ある城である。
始まりは1384年フォンベアヴァルデ家のディートリッヒが、新たな住居と統治のため築城された。
ディートリッヒが死ぬと城は妻、そして娘に渡り娘クララが死去すると、この城で唯一の事件が起こる。
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中世ヨーロッパの財産は夫と妻は別物で、妻が死んだとしても実家に返却され夫は自由に使えなかった。
今回クララが夫ディートリッヒより先に死去したので、城はクララの親戚の手に渡るはずだった。
だが、ディートリッヒはこれを拒否し城に居座ったため、クララの親戚であるシュタウピッツが自力救済を行使し城を乗っ取った。
ディートリッヒはマイセン辺境伯フリードリヒ好戦公に自力救済違反を訴えた。この当時自力救済は禁止されており裁判が基本であった。
フリードリヒは訴えを認め、平和違反を基にシュタウピッツが籠る城へ攻撃をかけた。
1ヶ月以上攻囲するも陥ちる気配はなく、なおも盛んであったが病が流行りシュタウピッツも罹ってしまうとついに降伏を申し出た。
この時シュタウピッツの妻が、妻や家族の釈放と助命を願い出たためこれを承諾し、さらに背中に背負えるだけの荷物を持ち出すことも追加した。
翌朝城門が開かれ妻たちが続々と籠や大きな物を背負って出てきた。背負っていた物、それは籠城していた夫だった。
のちに好戦公と呼ばれるフリードリヒだったが、約束を違えず全ての城兵が去って行くのを見届けた後城を後にした。
これとほぼ同じ話が300年前[[ヴァインスベルク城]]で行われているが、どちらも実際に行われた本当の話しである。
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1465年シュライニッツ家が城と領地を買収しゴシック様式への改造と城の改築を行った後は所有者が度々移り変わり、
1825年アーニム家が購入するとネオゴシック様式を追加し、1930年から一般に公開されるようになった。
だが1945年東ドイツになると没収され博物館となり、1993年以降はザクセン自由州が所有している。
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人里離れた森にありドイツでも余り知名度が無いためか、1986年の調査でヒトラー暗殺&ナチスクーデター計画の7月20日事件で処刑された
カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲルの隠し財産((宝石・中国やマイセンの磁器))が煙突や埋められていた部屋から発見されている。


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|所在地|ドイツ ザクセン自由州 中央ザクセン郡 クリープシュタイン|
|現存状態|現存|
|城郭構造|中庭型円郭式山城|

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