カーフィリー城 のバックアップソース(No.5)
*現実の城情報 [#information]

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ウェールズ首都・カーディフの北方12kmのカーフィリーにあるウェールズ最大の城。[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]のひとつ。
地名は英語でカーフィリー(正確にはカとケの中間くらいの発音)で、ウェールズ語ではカイルフィリーまたはカエルフィリー。
川をせき止めて作った大規模な水濠(ダム湖)と2重の城壁に囲まれ複数の区画を持つ堅城の名に恥じない城。いわばウェールズの[[忍城]]。

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エドワード1世によって建造された[[カーナーヴォン城]]たちアイアンリングとは違い、土着ノルマン人貴族(いわば国人領主)のグロスター伯兼ハートフォード伯ギルバート・ド・クレアによって1268年から建設された。
敵対していたウェールズ大公ルウェリン(スリウェリンとも読む)が建設途中を襲撃し焼き討ちをかけたが、築城は程なく再開されて1272年に完成した。
ギルバートは第2次バロン戦争(シモン・ド・モンフォールの乱)でシモンの家臣が立て篭もった[[ケニルワース城]]攻防戦(1266年)に参加しており、水に囲まれた城の防御力を思い知って城の着想を得たといわれる。

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ギルバートの死後、1316年にスラウェリン・ブレンが1万の大軍をもってカーフィリー城を攻撃したが、大規模な水濠によってカタパルトが効果を発揮できず撃退された。
その後娘婿でエドワード2世の寵臣小ヒュー・デスペンサーが城を継ぐ。しかし1326年エドワード2世ともども失脚。
エドワード2世と小ヒューはいったんはカーフィリー城に逃げ込むが、王妃イザベラから差し向けられた討伐軍が近づくと城を捨て逃亡する。
しかしこの軍勢に対して小ヒューの部下フェルトン卿と小ヒューの息子ヒュー(この親子、3代同じ名前でややこしい)の指揮の元、城は遺憾なくその防御力を発揮し半年近く持ちこたえる。翌年3月ついに開城降伏するが、そのときにはデスペンサー親子(大ヒューと小ヒュー)はすでに処刑、エドワードは幽閉されていた。抗戦した孫のほうのヒューは赦免され、10年後に爵位を継ぐ。

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1400年に始まったウェールズの大規模反乱であるグリンドールの反乱のさ中、1405年にはカーフィリー城も反乱の指導者オワイン・グリンドールと彼を支援するフランス軍((敵国イングランドの敵は味方という理屈でちゃっかり参戦))によって占拠され、その拠点の一つとして1年ほど使われた。またその前にも1403年に短期間だけ占拠されている。
その後は東城門のみが牢獄として利用されやがて荒廃していったが、清教徒革命では国王派の拠点となり攻防戦が繰り広げられた。
今も傾いたままの南東側の城塔はこのときの議会派による攻撃で爆破されて傾いたとも言われるが、単なる地盤沈下のためだという説もある。
1766年以降資産家として知られるビュート侯爵家が代々修復工事を行い、5代目侯爵が第二次大戦後にこの城をイギリス政府に寄贈したことで現在は一般に公開されている。

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|所在地|ウェールズ、カーフィリー州区|
|現存状態|現存|
|城郭構造|平城|

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**城郭構造[#g0cf8d17]

東側に落とし扉や二重扉を備えた大規模な主城門を置き、その南北に約400メートルもの長さの城壁で防御したダム堤体を伸ばし、さらにダムの南北両端に城門を設けてある。
城の周囲はダムによって堰き止められた湖が水濠となって囲み、ダムの東側(下流側)も単なる川ではなく水濠。
本丸西側と北側にも曲輪のように島を浮かべて防御力を向上させている。島と城の主要部分は石積みの護岸で固められ、ダムと島はもともとは跳ね橋で連絡されていた。
そしてその中心部にそびえる本丸は、城門二棟を備えた二重の城壁と四隅の塔、二棟の大規模な城塔で堅固に防御された『集中方式』を取っている。この方式を取っている城としてはもっとも古いうちのひとつである。
本丸の主要建造物は南側に寄せて配置され、この本丸を二棟の半円形の城塔からなる二棟の城門を備えた中郭が囲み、このうち西側の城門は角型堡塁として機能する島と跳ね橋によってつながれていた。
衛星写真をみるだけでも強固さが窺え、非常に戦闘的な城構えと言える。

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