カルアト・サラーフ・アッディーン のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報イスラームの英雄サラーフ・アッディーン(サラディン)にちなんだ城で、「サラーフ・アッディーンの城」を意味する。史料によってはサラディン城、ソーヌ城塞ともいう。 2つの河川が合流する峡谷に突き出た支脈の上に築かれ、フェニキア人の古城が東ローマ帝国時代に改修された。 12世紀初頭には十字軍が占領してソーヌ城塞と呼ばれるようになり、この時代に城塞は大規模な改修を受けた。 2つの河川が合流する峡谷に突き出た支脈の上に築かれ、フェニキア人の古城が起源で紀元前334年にはマケドニアのアレクサンドロス3世大王に引き渡されたという。 10世紀半ばにはアレッポを支配していたハムダーン朝のサイフ・アッダウラに占拠され、975年には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが奪取して改修し、1108年頃まで東ローマ帝国の支配下に置かれた。 12世紀初頭には十字軍が占領してソーヌ城塞と呼ばれるようになり、十字軍国家の一つであるアンティオキア公国の摂政サレルノ伯ルッジェーロからソーヌのロベールに引き渡され、この時代に城塞は大規模な改修を受けた。 当時、城塞と城下を城壁で囲むのが主流になり始めていたがソーヌはその好例であり、従来の城壁をより高くした重厚な城壁が村落の城壁とつながれた。また岩盤を掘削した深さ約30メートルもの堀によって支脈を分断するなどの強化が図られた。 続きをクリックで表示 こうしてソーヌ城塞は地中海世界で難攻不落の要塞とみなされるようになったが、シリアの十字軍勢力を駆逐したアイユーブ朝のサラディンが1188年に攻略し、その勝利を記念してカルアト・サラーフ・アッディーンと改名された。 アイユーブ朝が滅亡した後は14世紀頃までマムルーク朝が所有していたものの、その後放棄された。 アイユーブ朝が滅亡した後は1272年にマムルーク朝スルタン・バイバルスが奪取し、1280年にダマスク総督ソンコルがスルタン・カラーウーンに対して反乱を起こした際にはカルアト・サラーフ・アッディーンを使用し、独立政権の拠点とした。 ソンコルはイル=ハン朝のアバカ=ハーンの支援を受けつつカラーウーンに対抗したが、1287年にカルアト・サラーフ・アッディーンをカラーウーンに包囲され、降伏した。その後カルアト・サラーフ・アッディーンはトリポリ州に組み入れられ、14世紀頃までマムルーク朝が所有していたものの、その後放棄された。 カルアト・サラーフ・アッディーンは東ローマ帝国・十字軍・アイユーブ朝時代の諸様式が混在する、中世要塞建築としての歴史的重要性が評価され、現在は同じく十字軍時代の代表的な城塞であるクラック・デ・シュヴァリエとともに、世界遺産に指定されている。
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