カノッサ城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報「カノッサの屈辱」で知られるアペニン山脈北麓にある城。10世紀半ば、アダルベルト・アットーが建設した。 950年、イタリア王ロターリオ2世が亡くなると、ロターリオ2世の妃・アデライーデはイヴレーア辺境伯ベレンガーリオに息子のアダルベルト2世との結婚を強制され、カノッサ城のアダルベルト・アットーの下に逃れた。 続きをクリックで表示 カノッサ家はアダルベルト・アットーに始まるが、1027年にトスカーナ辺境伯となった孫のボニファーチオが1052年に暗殺されると、その娘であるマティルデはカノッサ城を継承し、トスカーナ辺境女伯となった。 ローマ教会に対する支配権を強めることで教会改革を進めた神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の遺志を継いだ皇帝ハインリヒ4世と、皇帝権を教会から排除することで教会改革を進めた教皇グレゴリウス7世との間で叙任権闘争が行われると、皇帝権の強化を恐れたザクセン公をはじめとするドイツの諸侯はグレゴリウスを支持し、同じく皇帝権に反発するマティルデもグレゴリウスをカノッサ城に招いた。 1077年1月25日、手詰まりとなったハインリヒはグレゴリウスによる破門の解除を願い、カノッサ城門にて3日間に及んで裸足のまま断食と祈りを続けて赦されたが、教皇が皇帝の権威を上回った事件「カノッサの屈辱」として今なお語り継がれている。 ローマ教会に対する支配権を強めることで教会改革を進めた神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の遺志を継いだ皇帝ハインリヒ4世と、皇帝権を教会から排除することで教会改革を進めた教皇グレゴリウス7世との間で叙任権闘争が行われると、皇帝権の強化を恐れたザクセン公をはじめとするドイツの諸侯はグレゴリウスを支持してハインリヒの退位を決議し、同じく皇帝権に反発するマティルデもグレゴリウスをカノッサ城に招いた。 1077年1月25日、手詰まりとなったハインリヒはグレゴリウスによる破門の解除を願い、カノッサ城門にて3日間に及んで裸足のまま断食と祈りを続けて赦された。 ヨーロッパでは、教皇が皇帝の権威を上回った事件「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」を意味する慣用句として用いられるように今なお語り継がれている。 なお、破門が解除されたハインリヒは勢力を回復してグレゴリウスに反撃し、1080年に対立教皇を擁立し翌年ローマへと進軍した。グレゴリウスはサンタンジェロ城に逃れるものの支えきれず、ロベール・ギスカールに救出され南イタリアに逃れ、サレルノで客死した。 なお、破門が解除されたハインリヒは勢力を回復してグレゴリウスに反撃し、1080年に対立教皇を擁立し翌年ローマへと進軍した。 グレゴリウスはサンタンジェロ城に逃れるものの支えきれず、ノルマン人のプーリア公ロベール・ギスカールに救出され南イタリアに逃れ、サレルノで客死した。 マティルデもまたハインリヒに敗れ、トスカーナ辺境伯領の大部分を失うことになる。 その後、マティルデの遺領をめぐる帝国と教皇庁の争いは最終的に皇帝フリードリヒ2世が放棄するまで続き、カノッサ城は多くの戦闘の舞台となりやがて荒廃したが、現在では年間3万人以上の観光客を集める観光地となっている。
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