オークニスブール城 のバックアップソース(No.2)
ドイツ国境に近いフランスのアルザス地方にありフランス・ドイツの間で所有権が度々変わったせいで、両国の影響を強く受けた城である。
フランス語でChâteau du Haut-Kœnigsbourg(シャトー・デュ・オー-クニスブール)、ドイツ語でHohkönigsburg(ホーケーニヒスブルク)。
Haut/Hoh(高い)、Kœnigs/königs(王)、bourg/burg(城)で「高い場所にある王城」という意味で、標高800mの山の上にある城である。
最初は12世紀頃、「Castrum(カストルム/ラテン語で砦) Estuphin(エストフィン/山の名前)」と呼ばれ、塩や小麦・ワイン等の交易路を守る砦として築かれた。
1157年頃神聖ローマ帝国皇帝コンラート3世によって、重要拠点として王城(直轄城)とされた。13世紀に帝国領の1つロレーヌ公国に売り渡され、さらにストラスブール司教に下げ渡された。
1454年、司教がプファルツ選帝侯と同盟を結んでいたせいで内乱に巻き込まれ荒らされてしまい、強盗騎士の根城となっていた城は1462年破壊されてしまう。
#br
#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}
#style(class=submenu){{
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世はスイス貴族のオズワルド・ティアシュタインに与えると、本拠地とするため1479年建物や城壁の修復・砲兵に対応した防御システムの増築を行ったが、1488年に死去すると弟のヴィルヘルムが相続するも1517年子供を残さずに亡くなったため、帝国に売却された。
1552年ザクセンの[[モーリッツ>モーリッツブルク城]]はフランス王アンリ2世と[[シャンボール城]]で密約を結び、アルザス地方の3つの領土を手に入れた。これがフランスにとってアルザス地方へ食指を伸ばす大きな要因の1つであった。
1621年、三十年戦争では帝国の傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルトがアルザス地方で無差別に略奪を行ったため、帝国と敵対していたスウェーデンと結んだが城は帝国に属したままだった。
1633年スウェーデン軍に攻囲され52日間の籠城戦の末落城、火をかけられそのまま廃城となった。終戦後アルザス地方は神聖ローマ帝国からフランスへ割譲された。
#br
200年以上放置された1866年、フランスに遺跡として認められセレスタ市に譲渡されたが、修復の費用が出せずにいた。
1871年普仏戦争でプロイセン領となると、1899年ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝に譲られた。
皇帝は西のホーケーニヒスブルク・東の[[マルボルク城]]と、神聖ローマ帝国から連なるドイツ帝国の象徴として、またアルザス地方がドイツ領の一部であると強調するため大々的な修復を行うことにした。
後に[[ドイツ城郭協会>マルクスブルク城]]を設立する若き建築家ボド・エブハルトによって1900年から9年間続けられ、三十年戦争前夜の15世紀の姿に戻された。
しかし1919年第一次世界大戦後ドイツからフランスへ移ると、再びフランスの遺跡となり1993年にはフランス国指定遺跡となった。
#br
余談だが、1919年フランスになってから1900年にドイツが行った修復は認められないと、多くのフランス国内の建築家や歴史家によってやれ正しくないだの間違ってるだの等々批判され、挙句の果てに[[ノイシュヴァンシュタイン城]]のような架空の姿を模した姿だと言われ続けた。
確かに現在から見れば幾分誤りは見られるものの、当時の修復技術・資史料を鑑みた場合、非常に素晴らしく確立された復元であった。
現在では称賛される程認められ、年間50万人にも及ぶフランスの有数な観光地の1つとなっている。

}}
#br
|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|フランス グラン・テスト地域圏 バ=ラン県 オルシュヴィラー|
|現存状態|復元|
|城郭構造|囲郭式山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム   一覧 最終更新 バックアップ 検索       最終更新のRSS