エカテリーナ宮殿 のバックアップ差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]
帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクにある宮殿で、[[ペテルゴフ宮殿]]から東南に約35km、[[冬宮殿]]からだと南に30kmの所にある。
その美しさから「美の衣をまとった宮殿」とも称される。エカチェリーナ宮殿とも。
始まりは1717年~1724年にかけてロシア皇帝ピョートル大帝が、妃のエカチェリーナ1世のために建てた夏の離宮である。名称も彼女の名に因む。
ただ完成後夫の死後エカチェリーナ1世が皇帝になると、ペテルゴフ宮殿で過ごす事が多かったが、
姪の4代皇帝アンナは帝王学を学ず政治に興味が無かったので、余暇のため増改築等をおこなった。

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エカチェリーナ1世の娘で6代皇帝エリザヴェータは非嫡出子((結婚前の子供))であったため両親への疎外感から両親に反発し、
母が建てたエカチェリーナ宮殿、父が建てたペテルゴフ宮殿・冬宮殿や教会を全てロココ調を取り入れたバロック式へと改築させた。
母のためのエカチェリーナ宮殿、父が建てたペテルゴフ宮殿や冬宮殿、教会を全てロココ調を取り入れたバロック式へと改築させた。
エカチェリーナ宮殿は1744年から開始され12年をかけ大々的に行われた。100㎏を超える金を使った装飾、6t余りの琥珀を使った琥珀の間など、
比較的質素だった宮殿は40以上の大広間、100以上のプライベートルームやサービスルームを備えた300m以上の大宮殿へと変貌した。
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8代皇帝エカチェリーナ2世は1778年~84年にかけて新古典主義で内装や部屋の改築を行った。
彼女は6代皇帝の甥の配偶者でロシアの血を引いていなかったが、この宮殿を1番愛したのは彼女だった。
特に「琥珀の間」が特にお気に入りで、他人を入れなかったほどである。
「琥珀の間」は[[ホーエンツォレルン家>ホーエンツォレルン城]]のフリードリヒ1世プロイセン王((子孫はドイツ皇帝))がバルト海の特産であった琥珀を売り込むため、
琥珀の間を作ろうとしたが、彼の死後計画はストップし、ロシアプロイセン同盟締結の際ピョートル1世に贈られたが、組み立て方が分からず放置されていた。
30年程経ってようやくエリザヴェータがペテルゴフ宮殿→冬宮殿を経て、1743年から開始され37年後の1780年に完成した。
ちなみに1791年にはロシアに漂着した大黒屋光太夫が、帰国の許可を得るためこの宮殿で謁見している。
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1796年エカチェリーナ2世が崩御すると、その子パーヴェル1世はエカチェリーナ宮殿を記念建造物とし、使用や滞在を避けパヴロフスク宮殿やアレクサンダー宮殿((どちらもエカチェリーナ2世が築宮))へ移った。
帝政崩壊後も保護されていたが、第二次世界大戦中の1941年~44年に起こった包囲戦でナチス・ドイツ軍が財宝や美術品、「琥珀の間」も持ち去ってしまった。
1979年ソ連は「琥珀の間」を国宝とし復元計画を始めたが、ソ連崩壊を経てロシア連邦になると資金が足りず放置されていたので、ドイツのガス会社が約3.85億円提供し2003年完成した。
この式典には露・米・独・英・仏・日などの各国の首脳陣が参列している。
1990年に『サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群』の構成要素のひとつとして世界遺産に登録された。
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|所在地|ロシア レニングラード州 サンクトペテルブルク|
|現存状態|現存|
|城郭構造|宮殿 平城|

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