イオラニ宮殿 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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オアフ島のホノルルにあるハワイ王国の宮殿であり、ハワイ島の[[フリヘエ宮殿]]と共にアメリカ唯二の宮殿。
元はカメハメハ1世の孫娘の夫が娘のために建てた家だったが、カメハメハ3世の時代に首都をホノルルに移すとともに王宮となった。
その後、7代国王のカラカウアにより1879-1882年の間に大改修が行われ、現在の姿となっている。
この時の宮殿の設計はトーマス・J・ベイカー、チャールズ・J・ウォール、アイザック・ムーアの三人によって行われ、彼らによりアメリカン・フローレンティンとも呼ばれる独特の建築様式の宮殿が完成した。
また、内部の設備には当時の最先端技術の導入がなされ、有名な話ではホワイトハウスよりも早く電灯や電話などを引き入れていた。
王宮としては1893年に女王リリウオカラニが革命で捕縛されるまで使用され、その後はハワイ共和国、ハワイ準州、ハワイ州の行政府として州庁舎落成まで使用された。

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//#style(class=submenuheader){{
//&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
//}}
//#style(class=submenu){{

//(本文の続きを入力してください)

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|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|アメリカ合衆国、ハワイ州、ホノルル|
|現存状態|現存|
|城郭構造|宮殿|

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//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

//(本文を入力してください)
現在のイオラニ宮殿はカラカウアにより建てられた。
カラカウアは精力的に外交を行った君主で、1881年には世界一周の旅に出て、ハワイ王国の経済的問題の解決の為に各国首脳との会談を行った。
またその際に、[[ウィンザー城]]、[[ロンドン塔]]、[[ホーフブルク宮殿]]、[[シェーンブルン宮殿]]、[[アジュダ宮殿]]、[[ペーナ宮殿]]など様々な城塞、宮殿に会談および視察で立ち寄っている。
イオラニ宮殿にもこの経験の影響が少なからずあり、例えば対照的に並ぶ石柱などにルネサンス様式からの影響を見て取れる。
また、彼の統治はハワイアン・ルネサンスの第一波としても知られ、例えばハワイ王国初期に禁止されたフラダンスを彼が復活させるなどした。

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&color(White,Maroon){リリウオカラニ(クリックで表示)};
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//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

//(本文を入力してください)
1891年にカラカウアが亡くなると、リリウオカラニがハワイ王国最後の女王となった。
当時のハワイ王国は、ハワイ人による王政の強化を望む王政派と、アメリカとの併合を望む共和派とに分裂していた。
その状況の中で、1893年1月14日に彼女が王政派より王権の強化を行うため憲法改正草案を提案したことにより事態が大きく動いた。
この草案は議会で否決をされ、この行動に危機感を募らせた共和派はロリン・A・サーストンやサンフォード・B・ドールなどを中心としてハワイ革命へと進んでいった。
そして、共和派と太いつながりを持っていたアメリカのスティーブンス公使の要請により、アメリカ市民の生活と財産を守るためとして、1月16日に160名の海兵隊によりイオラニ宮殿が包囲された。
1月17日にはリリウオカラニは捕縛され、共和派により暫定政府の樹立が宣言、その後48時間以内に当時ハワイ王国と国交を結んでいたすべての国から承認された。
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後に1895年に再起を狙う反乱を王政派が起こそうとしたことにより、リリウオカラニはイオラニ宮殿2階の寝室に投獄された。
彼女は捕縛された王政派の命と引き換えに王位を廃する署名を迫られ、これによりハワイ王国は滅亡した。
一説によれば、この投獄中に祖国と国民とを思って作った曲がアロハオエと言われる。
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