魚津城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 上杉景勝の部将13名が壮絶な籠城戦を行ったことで知られる、上杉氏の越中支配の重要拠点となった城。 建武2年(1335年)に椎名頼胤によって、椎名氏の本城である[[松倉城]]の支城として築かれたとされる。 椎名氏は越中新川郡守護代としてこの地を治めたが次第に神保氏に押され、椎名康胤は上杉謙信と結んで神保氏に対抗した。 しかし康胤は武田信玄に通じたため、魚津城は松倉城とともに謙信に攻撃され落城、上杉氏の支配下に置かれた。 謙信は魚津城に河田長親を城代として入れ、越中支配の拠点とした。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 謙信の死後上杉氏が弱体化したことで織田信長による北陸への進出が本格化し、魚津城は越後を守る最前線となった。 魚津城では中条景泰をはじめとする13人の部将が決死の籠城戦を展開したが、織田の大軍に包囲されて窮地に陥り、再三に渡って上杉景勝に救援を要請した。 景勝は一時は魚津城の背後の天神山城まで出陣するものの、[[海津城]]の森長可や[[厩橋城]]の滝川一益など織田方が越後侵入の姿勢を見せ、また[[新発田城]]の新発田重家の反乱もあって居城である[[春日山城]]を留守にはできず、撤退した。 後詰が見込めなくなった魚津城だが最後まで降伏せず抗戦し、13名の部将全員が切腹して落城した。 #br 落城の直後に本能寺の変の知らせを受けた織田軍は撤退し、魚津城は上杉氏が奪還したが、すぐに佐々成政に攻略された。 成政が肥後に移ると前田利家が入り城代が置かれたが、元和元年(1615年)に一国一城令によって廃城となった。 廃城後も魚津城跡には武器庫や米倉が置かれた備蓄基地となり、江戸時代の絵図には方形の本丸の北・東・南を二の丸が囲んで二重の水堀が巡らされ、海に面する西は海岸線に沿って柵が築かれ二重櫓が配された姿が描かれおり、加賀藩の重要拠点だったことがうかがえる。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|富山県魚津市| |現存状態|なし| |城郭構造|梯郭式平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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