玉藻城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) [[日本三大水城>日本100名城#la7da4c7]]の一つである[[高松城]]の別名。 以下、高松城の贈り物イベントの台詞を参照。 #br この城は天正18年(1590年)に、生駒親正によって建てられた。生駒氏は美濃国の生まれだが、羽柴秀吉の配下として活躍し、[[長篠>長篠城]]の戦いや[[石山御坊]]攻めなどに参加した歴戦の強者である。 そして、順調に出世して讃岐一国を与えられ、最終的に豊臣三中老の一人にまで出世をしたとされる。((ただし、三中老という役職は一次史料には見えず、後年の創作とされる。)) 玉藻城という別名は、柿本人麻呂が讃岐国の枕詞として「玉藻よし」と詠んだことから、城周辺の海を玉藻浦と呼んでいたことが由来だと言われる。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ この城は、四国で一番大きな天守を持ち((明治17年(1884年)、老朽化のため取り壊された。))、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と、民謡にも歌われている。 また、瀬戸内海に面していたため、三重の堀には海水が引き込まれていて、城内から直接船を出すことが出来た。 縄張りを手掛けたのは、秀吉の軍師として有名な武将である黒田孝高(よしたか)だと言われている。 #br 城の二の丸と天守がある本丸の間の堀には、かつて「欄干橋」と呼ばれていた鞘橋という橋が架けられているが、天守に行くためには、この橋を渡るしかない。 つまり、橋を落とすと天守は完全に外部と切り離される構造になっていて、防御拠点としての役割が期待されていたことがよくわかる。 天守は、下の階よりも上の階の面積を大きく取って、ぐるりと外側に張り出しているのが特徴の、唐造(からづくり)と呼ばれる珍しい形をしている。 その外壁は板張りで黒かったが、江戸時代に入ってから、白漆喰で塗り直したと言われる。 }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|香川県高松市玉藻町2番1号| |現存状態|櫓、門、渡櫓、石垣、堀| |城郭構造|輪郭式平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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