玄蕃尾城 のバックアップソース(No.6)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) は滋賀県と福井県の県境に位置する余呉北方の山々のうち、最も北方に位置する中尾山(柳ヶ瀬山)に築かれ、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家が本陣として用いた陣城。 周囲に土塁を巡らせ北東隅には天守台に相当する櫓台が設けられた方形の曲輪を主郭とし、その北・南・東には外側に土塁が巡らされた小曲輪が付属する虎口が設けられた。 このうち南北の小曲輪は角馬出となっており、南側のものは外側に長方形の曲輪が設けられた重ね馬出となっており、北側では馬出の外側に扇形の曲輪が配置されて兵糧や武器などを保管する兵站基地として機能したと考えられる。 戦国時代後半、織豊系城郭の特徴として曲輪を囲い込む横堀が発達し、横堀によって山城に防衛線が確立されるようになったが玄蕃尾城はその典型例となっており、その突出した規模・縄張から陣城の最高傑作と評される。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 天正10年(1582年)の清州会議において領国に新城の築城を禁止することが取り決められたが、翌年に羽柴秀吉は山城で山崎・八幡に城を築いたため、柴田勝家はこれを誓約違反であるとして秀吉と激しく対立した。この秀吉の築城に対抗して築かれたのが玄蕃尾城とされる。 清州会議で勝家は畿内への足がかりとなる[[長浜城]]を手に入れ、養子の勝豊を入城させた。しかし勝家の本拠である[[北ノ庄城]]と長浜城は離れすぎており、その間のつなぎの城としても玄蕃尾城を築いた意図があったと考えられる。 この勝家と秀吉との対立が天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに発展したわけだが、この戦いは両軍が約二ヶ月にわたって対峙するものであった。 勝家方の先陣として2月28日に前田利家・利長が[[府中城>越前府中城]]を出陣し、3月9日に勝家が北ノ庄城を出陣した。こうして勝家軍は3月上旬にはほぼ布陣が完了した。 これに対し、北伊勢で滝川一益と対峙していた秀吉は3月11日に[[佐和山城]]に入り、翌12日には長浜城に入城、17日には木之本に到着し、東野山~堂木山のラインに防御線を設けて勝家軍の南下を阻むこととした。 #br 秀吉方はこの東野山~堂木山のラインに枡形や馬出を設ける発達した陣城を築き、第一次防御線とした。 また布陣当初に陣城が築かれていなかった賤ヶ岳から背後に回り込まれるのを阻止するため、第二次防御線として賤ヶ岳砦や大岩山砦、岩崎山砦を築いたが、これらの砦は第一次防御線の砦と比べると小規模かつ単純な構造の陣城だった。 一方勝家軍は玄蕃尾城を本陣に余呉北方の山々に布陣した。これらの陣も陣城として構えられたが、勝家軍の陣城はおおむね秀吉軍の陣城と比べると小規模で、縄張もそれほど複雑には築かれていない。これは攻める側の勝家軍があくまで前線基地として構えたものに対し、秀吉軍は勝家軍の南下を阻止するために構えられた差と考えられる。 #br さらに賤ヶ岳の戦いが長期戦の様相を見せると、勝家はさらに広範囲にわたる陣城の構築を開始した。丹生方面からの攻撃に備えて多くの砦が築かれ、塩津街道、今市以北の北国街道は完全に勝家軍によって固められた。 このように、賤ヶ岳の戦いは築城戦でもあった。そのなかでも玄蕃尾城は規模・縄張ともに突出しており、勝家が出陣してすぐさまこの城に布陣したことからも、賤ヶ岳の戦いの最中に築かれたものではなく、合戦前から築かれていたことを示すといえる。 最終的に賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利に終わり、玄蕃尾城は戦後廃城となった。現在の城跡はほぼ当時の姿を残しており、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬・福井県敦賀市刀根| |現存状態|曲輪、空堀、土塁など| |城郭構造|山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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