プファルツ城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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ライン川の中洲に築かれた、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)による通行税徴収のための城。
1214年にライン宮中伯位を得たヴィッテルスバッハ家は[[ハイデルベルク城]]を居城とし、ライン川中流域を支配した。
やがてライン川が交通の大動脈として機能し、ライン都市同盟が成立するなど都市が発展するようになると、ライン宮中伯で神聖ローマ皇帝やバイエルン公も兼ねたルートヴィヒ4世は、ライン川を航行する船舶の監視や通行税の徴収を目的として中洲に城を築くことを決定した。
こうしてプファルツ城は1326~1327年にかけて築かれたが、ライン川に数多く築かれた城のなかでも河中に築かれたのはプファルツ城だけで、このような立地は世界的にも珍しい。
細長い中洲に築かれたため城は全体的に船のような形状であり、五角形のベルクフリート(主城塔)が築かれた。中洲の基盤は岩盤となっているため頑丈で、プファルツ城は「プファルツ・グラーフェン・シュタイン」(プファルツ伯の石)が本来の呼称となる。

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プファルツ城を通行税徴収所としたルートヴィヒ4世だが、その税収をローマ教皇ヨハネス22世に納めなかったこともあって両者は対立し、ヨハネスはプファルツ城の破却を命じた。
教皇との対立は諸侯の離反も招いたが、ルートヴィヒは逆に1339年~1342年にかけて六角形の城壁を増築するなどプファルツ城の強化を行い、通行税徴収の確保を図った。
プファルツ城は15世紀にも増築され、1607年には流木などの被害から守るため上流側に稜堡が設けられるなどの増改築を受け、全体としてはこの時にほぼ現在の姿となった。
1714年にも部分的に改築されたが、その際にバロック様式の屋根となったため、中世城郭には不似合いな外観となった。
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ナポレオン戦争の終盤、解放戦争の際には撤退するナポレオン軍を、プロイセンの司令官ブリュッヒャーがプファルツ城のある地点でライン川を渡って追撃している。
1866年の普墺戦争後にライン川中流域一帯はプロイセンが領有し、翌年にはプファルツ城での通行税徴収は停止され、1960年代までライン川を航行する船舶のための信号塔として用いられた。
1946年からはラインラント=プファルツ州が管理するようになっており、現在は博物館として公開されている。
プファルツ城はあくまで通行税徴収のための施設であったため戦災に遭うことなく、また天災による被害も無かったために中世当時のままの姿が残っている。
2002年には世界遺産「ライン渓谷中流上部」の一部となり、2010年には日本城郭協会によって「プファルツ城」として[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]に選定された。

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|所在地|ドイツ、ラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡カウプ|
|現存状態|現存|
|城郭構造|水城|
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