フルボカー・ナト・ヴルタヴォウ城 のバックアップソース(No.1)
//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) チェコの南西部、プラハからほぼ真南110kmの所にあり、「チェコで最も美しい城」と呼ばれる城である。フルボカー城とも。 始まりは12世紀の初めに、ヴァーツラフ1世プシェミスル朝ボヘミア王によって築かれたと云われている。 一旦執事に管理を任せられ、最初に記録に出てくるフロブルク(Froburg/主様の城)はこれが由来。次代のオタカル2世になると再び王城となった。 プシェミスル朝からルクセンブルク朝と王朝が変われど王の所有物だったが、ルクセンブルク王朝のジギスムント王はフス戦争で戦費が嵩み城を抵当に入れたが、 イジー王の時引き戻され再び王城となったものの、妻ヨハナ女王((ボヘミアでは王妃も戴冠し女王となる))の持参金((生前夫から妻に渡される遺産))となり、女王の死後その兄が受け継いだため王城ではなくなった。 その後はボヘミア貴族の下を転々とし、1661年シュヴァルツェンベルク家のヤン・アドルフ1世公爵の物となった。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ シュヴァルツェンベルク家はフス戦争でジギスムントに多額の資金援助を行い、ボヘミアのいくつかの領土を受領していたが、 その財力を基にボヘミア・オーストリア・ドイツ等各諸国の領地を買収していて、フルボカー城もその1つだった。 ヤン・アドルフ1世は30年戦争で傷ついた城を修復すると居城とし、孫の代にバロック様式へと改築された。この時他の城から12000冊にも及ぶ本が移され図書館も作られた。 だが1740年から始まったシュレージエン戦争に巻き込まれ、フランス軍やプロイセン軍に占領され、当主も離れねばならなかった。 戦争終結後、[[クルムロフ公国>城塞都市チェスキー・クルムロフ]]の公主を継いだため、そちらに移ってしまい居城から支城の1つとなった。 #br 1840年にウィーンから建築家を招き、[[ウィンザー城]]をモデルにして改築が行われ、現在チューダーリバイバル様式としては世界有数の建築物となった。 1885年城下町の名前がポドフラド(Pod((下))hrad((城))/城下)からフルボカー(Hluboká/深い)となると、城名もそれに合わせてフロブルク城からフルボカー城となった。 1924年は町の名前が現在と同じくフルボカー・ナト・ヴルタヴォウ(Hluboká nad(上/上流) Vltavou(ヴルタヴォウ((独名モルダウ))川))となった。これは「フルボカー」が他に11町村あるためである。 なお城名が「フルボカー・ナト・ヴルタヴォウ城」とされる事もあるが、正式名称は「フルボカー城」である。ページ名は他の城と区別のため「フルボカー・ナト・ヴルタヴォウ城」としました。 最後はナチスがチェコを占領するとシュヴァルツェンベルク家の財産没収命令を出し、戦後一家は復活したチェコスロバキア政府に対しナチスに没収された城を含む財産の返還を求めたが、 政府は一家だけを対象とした「シュヴァルツェンベルク法」を成立させ財産を一切返還せず城も国有化した。 1989年に返還の申し出があったがこれを断り、現在もチェコ国有機関が管理している。 #br }} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|チェコ 南ボヘミア州 チェスケー・ブジェヨヴィツェ郡 フルボカー・ナト・ヴルタヴォ| |現存状態|現存| |城郭構造|フィリップ様式平山城| //#br *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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