トームペア城 のバックアップソース(No.3)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) エストニアの首都、タリンの旧市街の西側にある丘に建つ城。エストニアのシンボルで、現在は国会議事堂および政府機関の庁舎として使われている。 城壁に囲まれた城郭都市である旧市街の一角を形成していて、1997年に旧市街地と共に『タリン歴史地区』として世界遺産に登録されている。 12世紀末に始まった北方十字軍によってデンマークおよびリヴォニア帯剣騎士団が占領。現在残る城は帯剣騎士団が建造したものである。 騎士団の衰退後は周辺各国の支配下となり、支配者が変わるごとに増改築が繰り返され現在の姿になった。 トームペアとはドイツ語で「聖堂の丘」の意味で、タリンの街の名は「デーン人の城の町」を指す「ダーニーリーン」を転嫁したもの。ちなみにタリンに改名したのは1918年ブレスト=リトフスク条約によってロシアから独立したときで、それ以前は13世紀からレヴァルという名前で呼ばれていた。 #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }} #style(class=submenu){{ 古くはエストニア叙事詩の英雄の母リンダが夫の死を悼んで積み上げた岩が丘になったという伝説に因んでリンダニサと呼ばれていた。 城の建つ石灰岩質の丘は西暦9世紀あるいはおそらくそれ以前からエストニア人によって城砦として利用されていた。 12世紀末、異教徒の地リヴォニア(現在のエストニアとラトビア)への布教とキリスト教徒の保護を目的にリヴォニア帯剣騎士団が進出を開始。 当然現地民(+ロシア諸侯の援助)の抵抗を受けることになり、手を焼いたリヴォニア帯剣騎士団は北欧のキリスト教国に援軍を要請する。 これに応じたデンマークの王ヴァルデマール2世が1219年、軍を率いてリンダニサを襲撃、城を陥落させ占領。以後街はレヴァルと名前を変える。 伝説によればこのリンダニサの戦いのとき赤字に白十字の旗を掲げよというお告げがあり、そのとおりにすると戦況が逆転したという。この旗が現在に続くデンマークの国旗となった。 #br デンマーク王国によって占領された後、城のある丘の上に聖母マリア大聖堂が建築された。トームペアのトームはこの聖堂に由来する。 デンマークとドイツ諸侯の反目・衝突が起きていた1227年にリヴォニア帯剣騎士団が城を奪い、聖堂も含んで拡張改築して石造化した。 のちデンマークに奪い返されるが、1346年にリヴォニア騎士団(弱体化した帯剣騎士団がドイツ騎士団に吸収された後分団したもの)に売却される((借金の返済のためという))。 1285年、タリンはハンザ同盟に加わった。ハンザ都市として最北端に位置し、ハンザ同盟内とハンザ外のロシア・フィンランドとの貿易拠点となる。 その後中世を通じてリヴォニア騎士団領(テッラ・マリアナ)の重要拠点として存続したがドイツ騎士団は次第に衰退。15世紀にドイツ騎士団の傘下から離脱しリヴォニア連盟に入った。 16世紀リヴォニア戦争ではロシアのイヴァン雷帝の軍に攻められ一時支配下に入る。このとき攻城戦で撃ち込まれた砲弾が現在も塔に残っている。 リヴォニア戦争と北方戦争の結果、テッラ・マリアナは完全に解体され、タリンを含むバルト海沿岸はスウェーデン領エストニア公国となる。 #br スウェーデンによってトームペア城は騎士団の城砦からエストニア公国の政治・統治の中心地として改築される。 しかし城としての役割が完全に失われたわけではなく、この時代から城の城壁と旧市街の市壁の外側に角型堡塁が増設された。いくつかは現存している。 更に17世紀大北方戦争でスウェーデンがロシアに敗北するとロシア帝国の支配下となる。そして18世紀後半女帝エカチェリーナ2世の治世に知事公邸として改築され、戦闘用の城としての機能は失われた。 この時ヨハン・フリードリヒ・シュルツの設計によってバロック様式・新古典様式で建てられた宮殿が現在城の中心部に建つ議事堂の建物である。 1918年にエストニアが独立するとエストニア人建築家のヘルベルト・ヨハンソンとオイゲン・ハーベルマンの設計によって増改築された。 }} |BGCOLOR(#ddd):80|400|c |所在地|エストニア、タリン| |現存状態|一部現用 他に城壁、塔、堡塁、市壁など現存| |城郭構造|平山城| #br //題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。 //初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。 #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){城郭構造と主な建物(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ //Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。 ***城郭構造 石灰岩でできた小高い丘の頂上部に建つ平山城。城地は大まかに言ってラグビーボールのような楕円形をしている。 旧市街(下町)と城の建つ丘上(山の手)の間を結ぶ道は勾配は緩いが距離が長い「長い足」と逆に急だが短い「短い足」の二本ある。 城内は歴史上何度か大火に見舞われ、また前述のように支配者が変わるごとに増改築が繰り返されもしたため、全容が残っているわけではない。 北側と西側の城壁とそれを防御する三つの城塔が14世紀の建築当時の姿をそのまま残しているとされている。 -主な建物 --のっぽのヘルマン 高さ50.2メートルの城内で一番高い塔。14世紀に建造された城内の象徴的な塔で、各支配者の旗が常に掲げられていた。 現在はエストニア国旗が常に翻り、独立を果たしたエストニアの象徴となっている。 --聖母マリア大聖堂(トームキリク) 13世紀に創建されたエストニア最古の教会。地元では単に「トーム」(大聖堂)と呼ばれる。城の拡張と同時期の14世紀に石造化された。 現在の建物は17世紀の大火で損傷を受け後に修復されたもの。18世紀後半にバロック様式の鐘楼(高さ69メートル)が追加された。 タリン出身の歴史上の人物が埋葬され、その中にはロシア初の世界一周を果たし日本にも来た海軍提督クルゼンシュテルンもいる。 --アレクサンドル・ネフスキー大聖堂 国会議事堂と向かい合う位置にある正教会聖堂。19世紀末ロシア皇帝アレクサンドル3世によって建立された。 背景にはエストニアの民族独立運動を抑えるという目的があったため、ロシア帝国から独立した後取り壊す計画が持ち上がった。しかしロシア系住民の反発もあり流れ、その後ソ連からの独立のときにもう一度再燃したが現在では建築物としての価値が認められている。 --処女の塔 14世紀に建造され近代になって修復された塔。なお元々売春婦を投獄する塔で、それを皮肉ってつけられた名前といわれる。 --台所を覗く塔(キーク・イン・デ・ショク) 15世紀に建造。丘の傾斜が一番緩い位置に立つ防御の要。下町の家の台所が見えるという兵士の冗談から名前がついた。 }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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