常陸太田城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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常陸国の名門佐竹氏の居城。佐竹氏は源義家の三男新羅三郎義光の流れをくみ、その孫昌義から佐竹氏を名乗った。
常陸太田城は天仁2年(1109年)に藤原通延によって築かれたとされ、[[馬坂城]]を居城としていた佐竹氏第二代隆義は藤原通延の孫・通盛を小野崎城へと追った。通盛は小野崎氏を名乗り、[[石神城]]の石神小野崎氏・[[額田城]]の額田小野崎氏の祖となった。
常陸太田城を馬坂城に代わる居城とした隆義がこの城に入った際、上空を鶴が舞ったことから「舞鶴城」と呼ばれるようになったという。
以後約470年間にわたる佐竹氏代々の居城となり、佐竹氏中興の祖である第十四代義舜が戦国大名としての基盤を整えた。
この間に佐竹氏は治承・寿永の乱での源頼朝との戦い、南北朝動乱での南朝方との戦い、また佐竹氏の庶流で[[山入城]]を本拠とする山入家との山入の乱など幾度も戦乱を経験し、常陸太田城を度々奪われた。特に山入の乱は約100年間に渡り、延徳2年(1490年)には山入家の佐竹義藤・氏義父子によって常陸太田城から追放された。

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しかし佐竹氏中興の祖と呼ばれる第十五代義舜は永正元年(1504年)、岩城氏の支援を得て常陸太田城を奪還、山入家を討って佐竹氏を統一した。
「鬼義重」の異名で知られる第十八代義重は常陸太田城を拠点に北関東に覇を唱え、佐竹氏の全盛期を築いた。
第十九代義宣の頃に居城は[[水戸城]]に移り、慶長7年(1602年)に出羽国へと転封となった後、常陸太田城は廃城となった。
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常陸太田城は里川と源氏川に挟まれた南北に長い鯨ヶ丘台地の中央部に築かれ、台地中央部に5つの曲輪が置かれた。主郭部の南側には城下町が広がり、北側は阿武隈山系の山地につながる。
曲輪は土塁と堀で囲まれ、中央部の本丸は東と西に分かれ、南に二の丸、北に三の丸、そのさらに北に北曲輪が配置された。
本丸の西側斜面には連続竪堀と見られる凹凸がある。東側には堀と土塁を挟んで細長い馬出曲輪があったと考えられ、そのさらに東側は高さ約20メートルの崖となっている。
北曲輪の西側は勾配が緩いため防御上の弱点となっており、丘陵先端部に駒柵と呼ばれる出丸が置かれ、現在は帰願寺がある。
主郭部の南の平坦部には城下町が長さ約1500メートル、幅300~500メートルで続き、常陸太田市の旧市街地にあたる。城下町の東西は高さ約20メートルの崖となり、城下に入るには数本の急勾配の道を通る必要があることから防御性は高く、さらに要所には出丸が置かれ現在の浄光寺、法然寺、梅照院となっている。
東・西・南には湿地帯が広がり、城下町も含め高い台地上にある常陸太田城は天然の要害といえるが、北のみはなだらかな台地に続くことから弱点となっていた。
そのため北東の真淵坂方面では真淵館と馬場城、さらに東の今宮館や小野崎城が出城となっていたと考えられる。西には[[久米城]]、馬坂城、さらに西の前小屋城、宇留野城、部垂城、里川を挟んでの東には田渡城、東南の石神城、南の額田城、北の山入城などの支城群が配置され、本城である常陸太田城を守っていた。

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|所在地|茨城県常陸太田市中城町|
|現存状態|一部に土塁が残る|
|城郭構造|平山城|
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